僕の考える小説の歴史の仮説

いままで僕は小説の歴史というものを意識したことがなかった。それはとほうもなく巨大なもので、僕のような小者には到底理解できないに違いないと思いこんでいた。

でも最近はすこし考え方が変わってきた。別に歴史の全貌をとらえる必要はないのだ。というか、全貌を説明しきることなど誰にもできない。あくまでも僕は、僕の関心のある部分だけを捕捉できればそれでいいのだ。だから自分なりの文学史をここに記そうと思う。これはあくまでも現時点における仮説にすぎないけれども。

僕の考えでは、『ドン・キホーテ』以降の小説の歴史をとらえる上で足掛かりとなる作品は、『ドン・キホーテ』と『日はまた昇る』の二作だ。なぜなら『日はまた昇る』以前は『ドン・キホーテ』の影響を受けた小説が主流であるのに対して、『日はまた昇る』は新しい潮流を生み出し、徐々に大きな勢力を持つようになったからだ。

『日はまた昇る』より前の小説の歴史の特徴は、『ドン・キホーテ』が一番に居座り続けたということに尽きる。つまり作家がどれだけ力を入れて書いても、その作品は『ドン・キホーテ』という王様には叶わなかったのである。『百年の孤独』も『ノートルダム・ド・パリ』も『冷血』も『ドン・キホーテ』には勝てない。彼らは狂った老騎士のてのひらの上からついに脱出できなかった。

『ドン・キホーテ』は作中において贋作をこれでもかというほど攻撃するが、このことはじつに予言的であった。つまりセルバンテスは、『ドン・キホーテ』の影響を受けて作られた小説は、本物にはぜったい叶わないのだということを宣言してみせたのである。これは事実その通りになったように思われる。言ってみれば作家たちの努力はただの徒労であった。そこに発展はなく、成長と呼べるものもなかった。むしろ彼らは頑張れば頑張るほど隘路に入り込んでいった。文学はむずかしく、複雑で高尚なものになってしまった。正確に言うと、それは難しさと面白さのトレードオフだった。『ドン・キホーテ』より面白い小説は数多く存在する。でも、それはきまって『ドン・キホーテ』より難しいのだ。

『ドン・キホーテ』およびその影響を受けて作られた作品の特徴は、いくつかある。一つは、物語よりも文体を重視したことだ。特に饒舌なものが好まれた。『百年の孤独』や『失われた時を求めて』や『冷血』などはその最たるものだろう。新規性があり、独特で、読んでいる者が酔ってしまうような文体こそが価値あるものだとされた。多くの作家が新しい文体を次々と発明していった。それらはいずれも発酵食品のような匂いのきついものだった。でも一度慣れるとやみつきになってしまう、危険で鋭い魅力を宿していた。

もう一つの特徴は、セルバンテスが『愚かな物好きの話』という『ドン・キホーテ』中の短編で開示した手法だ(リンク)。これを使うと、大胆かつ激しく読者の心理を操作できる。『スワンの恋』『カラマーゾフの兄弟』はこの手法を用いて、読者に大きな感動をよびさました。しかし実の所、この手法がもっとも効果を発揮するのは破壊においてなのである。『愚かな物好きの話』も結末は主要な登場人物の破滅となっている。したがってこの手法を順当に発展させていくと、結局は『豊饒の海』や『百年の孤独』といった作品にいきつく。小説そのものを否定するような、荒廃そのものの結末にいたるのだ。このことも、一般の読者に文学を敬遠させるには十分な特徴であったと僕は思う。

さて、1926年に異変が起きる。『日はまた昇る』の発表である。

この作品の新しさは二つある。一つは本質においては『ドン・キホーテ』の影響を受けていない、独自の良さをもった作品であったこと。もう一つは、未熟であったことだ。『日はまた昇る』は全然完璧ではなかった。むしろたくさんの穴を抱えていた。それは明らかに発展途上の作品だった。

多くの作家がそれに目をつけて、彼の創始したハードボイルドの作風にのっとって小説を書きはじめた。ヘミングウェイの開発したエンジンに手を加え、独自の新規性を打ち出していったのだ。するとそれが上手くいった。ハードボイルドは発展し、成長したのである。たとえば『ロング・グッドバイ』がそれだ。成長・発展という点が『ドン・キホーテ』の流れを汲む作品との大きな違いだと僕は思う。

そのような成長の流れの行き着く果てが『1Q84』である。作中にヘミングウェイの名前が出てくるこの作品が、『日はまた昇る』を意識している証左は、簡潔な文体だけではない。書き出しがタクシー内の場面になっており、結末もふたたびタクシー内であることが挙げられるだろう。これは『日はまた昇る』の構成と酷似している。しかも開始時には、タクシーにいたのが運転手以外では女性一人だったのが、結末においては男女の恋人一組になっているのだ。この後に二人がセックスをする場面がきて小説は終結している。これは明らかに『日はまた昇る』の主人公たちを意識して、差異を打ち出しているのだと考えられる。すなわち『日はまた昇る』においては肉体的にも精神的にも結合が叶わなかった恋人たちを、『1Q84』においては巡りあわせ、結合させているのである。歴史という観点から言えば『1Q84』の最後のセックスシーンは不可欠なわけだ。

以前説明したように『日はまた昇る』は『ドン・キホーテ』を攻撃しているが、これはどうやら無謀な挑戦ではなかったようだ。後に続く者たちがヘミングウェイを補強し、発展させたからだ。そして我々はついに『1Q84』にたどり着いた。だから我々は、今の文学の主流はなにか、これから何になっていくかということを、『1Q84』を読むと把握できるだろう。

その特徴の一つは、饒舌な文体を避けて、簡潔な文体を好むということにある。これはヘミングウェイが創始したスタイルだ。文章は明快かつ平易になる。文長も長くはならない。三島由紀夫の『金閣寺』とは対照的だ。しかしその分、直接的な表現力はどうしても落ちてしまう。

そこで用いられるのが隠喩だ。たとえば『日はまた昇る』では、ロバート・コーンが暴れて主人公や同行者に迷惑をかけることで作中の幸福な雰囲気が失われていくが、作者は慎重にその前の場面で、無関係な人間が死ぬことを描いている。不吉な出来事を予言的に出しているのである。つまり死者はこれから起きる不幸のメタファーであると捉えられる。あるいは、以前説明したことだが、コーンやロメロが活動することで描かれる物語は、じつは主人公ジェイクの隠された望みのメタファーであると考えられる。このように隠喩を使うことで文章の魅力が担保されるわけだ。なお『1Q84』の隠喩については以前詳細を説明している。『1Q84』は隠喩を極めた作品であると言える。

また、簡潔な文体を構成するにあたって用いられる別の要素に、無ということがある。たとえば『二つの心臓の大きな川』では、メタファーの構造そのものを念頭に入れたうえで、ヘミングウェイは鱒が何を示しているかを隠蔽した。これによって独自の味わい深い感動が得られるようになった。あるいは『武器よさらば』では、主人公の心の動きはいっさいが省かれる。これにより不幸を前にした主人公の焦燥や諦観といったものが、よりよく読者に伝わるようになった。

ヘミングウェイの無が、傷ついた男による心の隠蔽であるのに対し、『1Q84』における無はどこまでも有的なものである。それは卵型の隠喩において十全に表現されている。すでに卵型の隠喩については別の記事で説明したのでくりかえさないが、村上春樹の無の扱い方の特徴は、文章を書くさいに、言葉を置いていくスペースを有の空間と無の空間に分けている点にある。彼は書きたい言葉をより効果的な方の空間に配置していく。特に倫理的な主張は無の側に置く。その方が効果的に響くからだ。それがヘミングウェイとの差異である。ヘミングウェイはあくまでも言葉を削ぎ落している。事実として消失させている。それに対して村上春樹の場合は、一見消えているように思われるが、実際にはしっかりと存在感を放っている。それはあくまでも見えない空間に置かれただけの話なのだ。つまり普通の作家が有の空間しか扱えないのに対して、村上春樹は有と無の二つの空間を活用する。これにより言葉はよりテンポよく歌われ、より濃密になる。説明や振り返りなしに物語を進めることができるからだ。結果的に小説は、文体よりも物語を重視したものになる。

ではセルバンテスが開発した反転の手法に対応するものは、ハードボイルドにおいては何になるのか?

それは、実は僕にもいまだに分からない。けれども、たぶん主人公の成長ということになるのだろうと推測している。そしてまた、それは終幕において異性のパートナーとの結合を含んだものでなければならない。つまり『愚かな物好きの話』の逆の結末である。

そういう意味ではハードボイルドに則った小説でなくても、成長物語というのは数多かったように思う。たとえば『ジャン・クリストフ』などは明らかに主人公の成長物語だが、発表は1904年である。だから言ってみれば僕の書いた「歴史」はそうとうに歪められたものだ。それは自分でも分かっている。でも、意図的に歪めることで理解が正しく進むということもあるだろうと考えている。少なくとも『ジャン・クリストフ』においては、結末部分で主人公は異性と結合しない。じつは成長物語で、かつ結末で異性と結合するものは、名作と呼ばれているものの中にはそう多くないのかもしれない。『大いなる遺産』や『金閣寺』や『ロング・グッドバイ』は成長物語だが、正しいヒロインと結合してはいない。

また、主人公の成長とは一体何なのかということもここまでの議論では解明されていない。これについても僕は引き続き考えていかなければならないと思っている。

今のところは以上である。ちなみのここまでの議論をもとにして「文学の歴史をおさえる上で必ず読まなければいけない作品を挙げよ」と言われたら、僕は『ドン・キホーテ』、『日はまた昇る』、『1Q84』の3つを挙げるだろう。