『日はまた昇る』を読む4

前回の記事で説明した通り、『日はまた昇る』は『ドン・キホーテ』的な小説にとって替わることを狙って書かれた。ドン・キホーテをなぞらえた人物であるロバート・コーンが滅んで、若者ロメロがあらわれるという物語構成にその意図はよく表現されている。

にもかかわらずコーンの存在感がかなり大きいのは、不思議である。物語構成の必然性からしたら、彼は単にドン・キホーテ的な人物として描かれて、そのうえで滅んでいけばそれでよかったはずだ。しかし実際にはコーンはロメロを暴力で叩きのめすのだ。むろんロメロはそれには屈せず、翌日には目の覚めるような試合をくりひろげるわけだが、このエピソードの必然性はなんなのかということを僕は考えてしまう。コーンは単純なかたちでは滅びないのだ。彼はあくまでも一矢報いてから退場するのである。

このエピソードは、もっとも表面においては、コーンがブレットを奪われたことに怒ってロメロを叩きのめしているのだと受け取れる。それは彼の幼児性を表現してもいる。その下の層においては、ロメロがブレットを奪っていくことに対して、主人公ジェイクの隠された怒りが発揮されているのだと受け取れる。ここまではすでに説明したことなので理解できるだろう。

それでも僕はやっぱりそこにストーリー以上のものを見て、考えさせられてしまう。なにもかも納得する、ということができない。なぜコーンは一方的に滅びず、新しい者に一矢報いるのだろうか。我々はこのことを、物語の観点ではなく、文学の潮流の交代や発展という面から見て、考えるべきではないだろうか。なぜなら傑作は、おうおうにして予言的な働きをするものだからだ。それはときに作者の思惑をも越えて、遠い未来を的中させるものだ。

つまり『ドン・キホーテ』的な小説は『日はまた昇る』的な小説と、密接な、なんらかの関係がある。両者は「はい、あなたたち交替ですよ」と言われてさっと入れ替わるような、そういうあっさりした関係性にはない。そこには大きな痛みを伴うほどの何かがある。

この構造や両者の関係性を看破して、自分なりの意見を組み立てなければ、我々はいつまでたっても『日はまた昇る』を越えていくことはできないのではないか。僕はいまそんな疑問を持っている。