『カラマーゾフの兄弟』を読む

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について書く。訳は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳を用いる。

どんな物語にも、これが理解できていれば重要なことはあらかた分かったと言えるような構造の核心が存在するものだ。『カラマーゾフの兄弟』の場合は以下の二点である。

  • 引き裂かれたキャラクターの否定
  • 子供の善性の強調

引き裂かれたキャラクターの否定

本作の構造を見抜く上で重要になるのは、序盤の、カラマーゾフ一家とゾシマ長老が会見する場面である。正確には、長老が中座して参拝者と会う場面も含まれる。その場でゾシマの口を介して、ドストエフスキーの文学的な主張が発されるのだ。

さて、文学の普遍的な構造として、あるキャラクターが二つの異なる方向性の力に引き裂かれている、というのがある。例えば『金閣寺』の主人公は、美に陶酔している自分と、美と一体化できない自分とに引き裂かれている。『スワンの恋』の主人公は、恋人やサロンで送る安逸な生活と、真摯に芸術を研究する生活の二つに引き裂かれている。エヴァンゲリオン新劇場版の主人公は、父性と母性という二つの道に引き裂かれている。『ドン・キホーテ』の主人公は、騎士道物語を肯定する力と否定する力とに引き裂かれている。ドン・キホーテは一見騎士道物語を誰よりも信仰しており、それに忠実なのだが、やることなすことがすべて裏目に出るため、周囲の人物から見たら笑いの種にしかならない。そのため、結果として彼は騎士道物語を否定する役割を担っているとも捉えることができるのである。

ドストエフスキーはこうしたキャラクターを否定することを『カラマーゾフ』の目標に据えた。とりわけドン・キホーテのような演技性の強いキャラクターを念頭に入れてフョードルというキャラクターを生成し、このような人物を否定することに力を入れた。あるいは、こう言ってもいいかもしれない。ハムレットというキャラクターをもっと陰湿にするとフョードルになるのだ。

次はゾシマ長老からフョードルへの説法である。実はこれこそが『カラマーゾフの兄弟』という小説の中でもっとも初めに開示される道徳観であり、そのまま本作の本質を表している言葉なのである。

「大事なのは、自分に嘘をつかないことです。自分に嘘をつき、自分の嘘に耳を傾ける人間というのは、自分のなかにもまわりの人間のなかにも、どんな真実も見分けがつかなくなって、ひいては、自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになるのです。だれも敬わないとなると、人は愛することをやめ、愛をもたないまま、自分を喜ばせ気持ちをまぎらわそうと、情欲や下品な快楽に耽って、ついには犬畜生にもひとしい悪徳に身を落とすことになるのですが、それというのもすべて、人々や自分に対する絶え間ない嘘から生まれることなのです。」

自分に嘘をつくということが引き裂かれの主たる原因なのだ、というのがドストエフスキーの主張らしい。この主張はたしかに一理ある。『スワンの恋』のスワンは誠実に芸術と向かい合う姿勢の意義に気づきながらも、オデットとの恋愛に耽る。それは自分の内なる目標と野心をごまかしているからこそ可能になる逃避行動なのだ。

その後も「自分に嘘をつくこと」への批判は続く。

  • P151 - 「大切なのは、嘘を避けることです。どんな嘘も、とくに自分自身に対する嘘は。」
  • P159 - 「そもそも問題の根底そのものに嘘が潜んでいるのですから」 - ここは自分自身に対する嘘への言及ではないが、ある別々の二つのものが混ざり合って一つのものになっているものを、嘘と表現しているので、婉曲的には繋がりがあると分かる。引き裂かれのことを嘘と言っているのである。
  • P165 - 「ですから現代の犯罪者の良心は、じつに頻繁に自分で自分と取り引きしてしまう。」
  • P175 - 「社会主義的なキリスト教徒」 - 引き裂かれのことを言っている。
  • P183 - 長老の指摘。イワンは不死を信じたいが信じまいとしている。すなわち嘘をついている。
  • P192 - フョードルの嘘、演技性。

こうした引き裂かれは終盤の裁判の場面においても再三指摘される。

  • P522 「彼(ドミートリー)のなかでは、善と悪とが、じつにおどろくべきかたちで、混ざりあっています。」
  • P526 「それとも、じつにいやらしい、メダルの裏側でしょうか。ふつう人生では、ふたつの両極端の中間に真実を求めるのが常とされています。」
  • P527 「つまり彼のような人間は、あらゆる両極端をいっしょくたにできるし、ふたつの深みを同時に眺めることができるのです。」
  • P615 「カラマーゾフ気質にはふたつの側面がある、ふたつの底なしの深みをそなえている、だからこそ、豪遊し、散財したいというたまらない欲求にかられたときでも、ちがった側面から何かしら心を動かされることがあれば、踏みとどまることができるのです。」

なおドミートリーが金を半分だけ使い、半分だけ取っておいたというのも、このような二つの方向性への引き裂かれということと関連が深い。

ここまでで、まず「引き裂かれたキャラクター」というものを作者が強く意識していることは把握できた。

さて、会見の場面でもう一つ重要なのは、自己犠牲の価値の強調である。

「隣人に対する愛が、もしも完全な自己犠牲に達することができたら、そのときはもう確実に信じきるようになり、どんな疑いもあなたの魂に忍びよることなどできません。」

よくよく第2編「場違いな会合」を反省してみると、ここで開示されている倫理観は次の二点だけである。

  1. 自分に嘘をついてはならない
  2. 自己犠牲

この内、自己犠牲は一体何を意味しているのだろうか。順番は大切である。あくまでも「自分に嘘をついてはならない」という倫理が最初で、自己犠牲は二番目なのだ。とすると、引き裂かれたキャラクターという文学上の概念を否定するという目的を果たすうえで、重要な通過点、あるいは道具となるのが自己犠牲なのではないか、という推論が成り立つ。

ここでもう一度原点である『ドン・キホーテ』に立ち返って考えてみよう。ドン・キホーテという人物に課された二つの方向性とは、騎士道物語を肯定することと、騎士道物語を否定して小説『ドン・キホーテ』の価値を世に認めさせることである。後者こそがセルバンテスの主張であり、真に世に問いたいことだ。

飛躍のある推論をおこなうが、おそらくドストエフスキーは『ドン・キホーテ』のラストに不満があった。主人公ドン・キホーテが死ぬ場面は作者にとっては勝利かもしれないが、読者にとっては悲しいものだ。彼はそのような結末を物語のあるべき姿として認めたくなかった。否定したかった。

そこで彼は『ドン・キホーテ』を反省し、同様に引き裂かれたキャラクターから出発して、その引き裂かれを解消する物語を書こうと思った。セルバンテスは引き裂かれを解消するにあたって、次のような戦術を用いた。すなわち、自己の内、騎士道物語を肯定する心をドン・キホーテに割り当て、騎士道物語を否定する心を書き手に割り当てたのである。そしてドン・キホーテを死なせて書き手を残し、書き手に勝利宣言を行わせた。二者のうち一方が死んだので引き裂かれは解消である。

ドストエフスキーもこれとまったく同じ書き方をすることに決めた。引き裂かれの内、始末したい方を死なせて、肯定したい方を生かすのである。すなわち「引き裂かれたキャラクター(具体的にはフョードル、ドミートリー、イワン)」を破滅させる。そして「引き裂かれていないキャラクター(具体的にはアリョーシャ)」を生かす。

ただし彼は『ドン・キホーテ』の陥穽にはまらないように、自己犠牲というものを導入することを心に決めた。彼はセルバンテスのように自分の利得を打ち出すのではなく、代わりに普遍的な倫理観を打ち出そうと考えた。自己の利得を否定する以上、必要となるのは自己の否定である。だから彼は作中のフョードルというキャラクターに自分自身をすべてつぎ込んだ。特に自身の下劣なものをすべて入れ込み、ことさらに強調した。そしてこれを死なせた。それも最低の死に方をさせた。これこそがドストエフスキー流の自己犠牲の方法であった。登場人物が自己犠牲をするのではない。まぎれもないドストエフスキー本人が自己犠牲をおこなうのである。『カラマーゾフ』とは父親殺しの物語ではなく、自分殺しの物語なのであった。

ただし小説としてはこのような構造上、必然的にフョードル以外にも主人公格の登場人物が必要になってくる。それがタイトルにもなっているカラマーゾフの兄弟という訳である。

ただフョードルは悪人であるから、単にこれを死なせるだけでは罪の贖いとしては弱い。キリスト同様に、正しい人間が犠牲にささげられてこそ人類の(読者の)罪は贖われる。だからこの作品は犠牲のオンパレードと化している。アリョーシャの母親は序盤で死に、ゾシマは老衰で死に、フョードルは無残に殺され、スメルジャコフは自殺し、イワンは発狂し、ドミトリーは無実の罪でシベリア送りになり、無垢な少年であるイリューシャも夭折する。

子供の善性の強調

ドストエフスキーは結論部分に爆発的な説得力を持たせるために、セルバンテスのメソッドを用いた。

それは次のようなものだ。ある一つのことを執拗に何度でも繰り返す。文章は長く、長くなっていく。その中で最初に提示された一つの物事は、比喩やたとえ話などのさまざまな表現方法を用いられて変化しながら、しかし本質は元のままに、何度でも繰り返されていく。そうして一つの物事が変化を遂げながら執拗に繰り返されていくうちに読者の心理は変化していく。その反対の物事への疑念・可能性が無意識のうちに芽生えていくのだ。そうやって十分に疑念や可能性を植え付けた後に一気に物語を反対の方向へ持っていくと、読者は興奮し、感動する。急激な展開にももちろん納得し、面白さを覚える。

『カラマーゾフ』の結論は、子供の善性である。したがってその結論を呼び出すための準備部分は、大人の邪悪さということになる。大人の反対が子供であり、悪の反対が善である。事実、作者は大人の醜い点をあらゆる角度から描いた。以下にそれを列挙していく。

  • 色欲: フョードルとドミートリーは一人の女を巡って争う。色欲ということが描かれている。この時、色欲の醜さに加えて、親と子の対立というものが描かれているのも見逃せない。
  • 金銭欲: 金銭欲も執拗に描かれる。ドミートリーは父親に大金を無心するし、彼は婚約者から預かった金を散財して、かつ残りを着服する。さらに、これは真実ではなくあくまでも嫌疑だが、ドミートリーは父親を殺して金を奪い取ったものと疑われるのだ。
  • 疑心: 疑心というものが描かれる。無実の人間を尋問し、疑い、罰をくだすこと。誰もがドミートリーを疑い、「お前が殺したのか」と問い詰める。裁判では証人への尋問がおこなわれ、その証言の妥当性が疑われる。
  • 殺人: フョードルが殺される。特に、尊属殺。
  • 子供への虐待: イワンの語りの中で、大人が子供を虐待する話がくりかえされる。また、ドミートリーは幼年時代、フョードルから満足な扱いを受けなかった。
  • 神への叛逆: イワンはアリョーシャに神へ叛逆することを語る。彼は神を信じておらず、したがってどのような行為も倫理にもとらず、許されると思っている。
  • 嘘: スメルジャコフは自白をせず、罪をドミートリーになすりつける。ドミートリーもまたさまざまな嘘をつく。
  • 誤審: ドミートリーは実際には無実であるにもかかわらず、有罪とされ、シベリア送りになる。

このようなありとあらゆる悪徳を通過したうえで、物語の最後にイリューシャの葬儀が描かれる。これは作家による卓越した構成である。裁判と、それと無関係なはずの葬儀が、見事に繋ぎあわされている。至上の善を体現するイリューシャが死に、同時にそれによってあらゆる悪徳が死に絶えるのである。彼は自分とともに悪徳を天国へと連れていき浄化する。そして最後にそのことがアリョーシャによって明言されて、小説はしめくくられる。我々はそこで絶大な感動をおぼえる。