『1Q84』を読む5: 『城』のアンサーとしての『1Q84』

カフカの『城』については以前解説した。

riktoh.hatenablog.com

riktoh.hatenablog.com

『城』が抱える本質的な問題に村上春樹の『1Q84』は答えていると思うので、今回はそれについて説明する。

『1Q84』が『城』を参照していることが明示されるのは次の箇所だ。

「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。
「あなたは何ものでもない」と父親は言った。そして簡潔に二度首を振った。

『城』ではくりかえし主人公は「あなたは何者でもない」と言われる。それを意図的に引用しているのが上の箇所だ。

『城』でKが「あなたは何者でもない」と言われている場面は、たとえば次だ。

「あなたはお城のかたではないし、村の出ではないし、あなたは何者でもないんですよ。でも残念ながらあなたは何者かではありますよ。よそ者、余計者でどこでだってじゃまになる人間なんです。」

 

「ああ、いったいKは何を考えているんだろう? どんな奇妙なことを頭のなかで思い描いているんだろう? 何か特別なことでも手に入れようというのだろうか。地位だろうか、特別の待遇をだろうか。何かそういったものを欲しているのだろうか。ところで、そんなものを求めているのだったら、彼はほんの最初からもっとちがった処置をとらなければならなかったのだ。ともかく彼という人間は何ものでもなく、彼の状態をじっと見ていると、ひどく気の毒だといわなければならない。彼は測量技師ではある。それはおそらく何ものかにはちがいないのだ。そうだとすれば何かを学んだわけだ。ところが、それで何をやったらいいのかわからないとすれば、やはり何ものでもないわけだ。」

村上春樹は「何者でもない」とはいかなることかについて、一生懸命考えた。『城』は何を言おうとしているのだろうか? 『城』が伝えようとしているメッセージとはなんだろう? どうすればKは「何者か」になれるのだろうか? そのような主人公への攻撃にも等しい問いと、彼の置かれている、城にたどりつけないという状況はどのような関係にあるのだろう?

そして彼はついに喝破した。『城』の主人公が置かれている状況とは、端的に言えば、意識上の願いと無意識上の願いのあいだで引き裂かれていることにあるのだ。意識上の願いとは、他人から「こうしてほしい」と望まれていることである。一方で無意識上の願いとは、隠された、自己の真の願いである。

『1Q84』の前半は、主人公の天吾がそのような構造を看破し、解決に向かっていくことを宣言する場面で幕を閉じる。長いが、該当箇所を次に引用してみた。

「今のところまだうまくいっているとは言えないけど、僕はできればものを書いて生活していきたいと思っている。他人の作品のリライトなんかじゃなく、自分の書きたいものを自分の書きたいように書くことでね。文章を書くことは、とくに小説を書くことは、僕の性格に合っていると思う。やりたいことがあるというのはいいものだよ。僕の中にもやっとそういうものが生まれてきたんだ。書いたものが名前つきで活字になったことはまだないけれど、たぶんそのうちになんとかなるだろう。自分で言うのもなんだけど、書き手としての僕の能力は決して悪くないと思う。少しは評価してくれる編集者もいる。そのことについてはあまり心配していない」
 それに僕にはどうやらレシヴァとしての資質がそなわっているらしい、と言い添えるべきなのかもしれない。なにしろ自分の書いているフィクションの世界に現実に引きずり込まれたくらいだ。しかしそんなややこしい話をここで始めるわけにはいかない。それはまた別の話だ。彼は話題を変えることにした。
「僕にとってもっと切実な問題は、これまで誰かを真剣に愛せなかったということだと思う。生まれてこの方、僕は無条件で人を好きになったことがないんだ。この相手になら自分を投げ出してもいいという気持ちになったことがない。ただの一度も」
 天吾はそう言いながら、目の前にいるこの貧相な老人はその人生の過程において、誰かを心から愛した経験があるのだろうか、と考えた。あるいは彼は天吾の母親のことを真剣に愛していたのかもしれない。だからこそ血の繫がりがないことを知りながら、幼い天吾を自分の子供として育てたのかもしれない。もしそうだとしたら、彼は精神的には天吾よりもずっと充実した人生を送ったということになる。
「ただ例外というか、一人の女の子のことをよく覚えている。市川の小学校で三年生と四年生のとき同じクラスだった。そう、二十年も前の話だよ。僕はその女の子にとても強く心を惹かれた。ずっとその子のことを考えてきたし、今でもよく考える。でもその子と実際にはほとんど口をきいたこともなかった。途中で転校していって、それ以来会ったこともない。でも最近あることがあって、彼女の行方を捜してみようという気になった。自分が彼女を必要としていることにようやく気がついたんだ。彼女と会っていろんな話をしたかった。でも結局その女の子の行方はつきとめられなかった。もっと前に捜し始めるべきだったんだろうね。そうすれば話は簡単だったかもしれない」
 天吾はそこでしばらく沈黙した。そして今までに語ったものごとが父親の頭に落ち着くのを待った。というよりむしろ、それが彼自身の頭に落ち着くのを待った。それから再び話を続けた。
「そう、僕はそういうことについてはとても臆病だった。たとえば自分の戸籍を調べなかったのも同じ理由からだ。母親が本当に亡くなったのかどうか、調べようと思えば簡単に調べられた。役所に行って記録をみればすぐにわかることだからね。実際に何度も調べようと思った。役所まで足を運んだこともあった。でも僕にはどうしても書類を請求することができなかった。事実を目の前に差し出されることが怖かったんだ。自分の手でそれを暴いてしまうことが怖かった。だからいつか何かの成り行きで、自然にそれが明らかにされるのを待っていた」
 天吾はため息をついた。
「それはともかく、その女の子のことはもっと早いうちに捜し始めるべきだった。ずいぶん回り道をした。でも僕にはなかなか腰を上げることができなかった。僕は、なんと言えばいいんだろう、心の問題についてはとても臆病なんだ。それが致命的な問題点だ」
 天吾はスツールから立ち上がり、窓際に行って、松林を眺めた。風はやんでいた。海鳴りも聞こえなかった。一匹の大きな猫が庭を歩いていた。腹の垂れ方からすると、妊娠しているようだ。猫は木の根もとで横になり、脚を広げて腹をなめ始めた。
 彼は窓際にもたれかかったまま、父親に向かって言った。
「でもそれとは別に、僕の人生は最近になってようやく変化を遂げつつあるみたいだ。そういう気がする。正直に言って、僕は長いあいだお父さんのことを恨みに思っていた。小さい頃から、自分はこんな惨めな狭苦しいところにいるべき人間じゃない、もっと恵まれた環境に相応しい人間だと考えていた。自分がこんな扱いを受けるのはあまりにも不公平だと感じてきた。同級生たちはみんな幸福な、満ち足りた生活を送っているみたいに見えた。僕より能力も資質も劣る連中が、僕とは比べものにならないほど楽しそうに暮らしていた。あなたが自分の父親でなければよかったのにとその頃、真剣に願っていた。これは何かの間違いで、あなたは実の父親ではないはずだと、いつも想像していた。血なんか繫がっているはずがないと」
 天吾はもう一度窓の外に目をやって、猫の姿を見た。猫は自分が見られていることも知らず、無心にそのふくらんだ腹をなめていた。天吾は猫を見ながら話を続けた。
「今ではそんなことは思わない。そんな風には考えない。僕は自分に相応しい環境にいて、自分に相応しい父親を持っていたのだと思うよ。噓じゃなく。ありのままを言えば、僕はつまらない人間だった。値うちのない人間だった。ある意味では僕は、自分で自分を駄目にしてきたんだ。今となってはそれがよくわかる。小さい頃の僕はたしかに数学の神童だった。それはなかなか大した才能だったと自分でも思うよ。みんなが僕に注目したし、ちやほやもしてくれた。でもそれは結局のところ、どこか意味あるところに発展する見込みのない才能だった。それはただそこにあっただけなんだ。僕は小さい頃から身体が大きくて柔道が強かった。県の大会では常にいいところまで行った。しかしより広い世界に出て行けば、僕より強い柔道選手はいくらもいた。大学では全国大会の代表選手にも選ばれなかった。それで僕はショックを受けて一時期、自分が何ものであるかがわからなくなった。でもそれは当然のことだ。実際に何ものでもなかったんだから」

解説すると、数学や柔道においては天吾は他人から褒められ、評価されていた。それでその道を行くことを選んだ。望んでではなく、他者から求められたからその道を進んだわけだ。彼はそこで挫折する。彼は城にたどり着けない。しかしその後に天吾は小説を書くということを発見する。それこそが自分の真の望みであることを彼は自覚したのだ。

「実際に何ものでもなかった」とは、つまり、自分が本当に望んでやったことではない、ということを意味している。他人から引きずられているだけの状態である。だから彼は何者にもなれない。そして何者かであるということは、『1Q84』においては、自分の真の望みを自覚し、その道を邁進するということを意味している。そのような状態の人間は、自分がいったい何者であるかを知っている、というわけだ。他者からの評価など関係ない。自分の意欲と意志だけが問題なのだ。

以上で、『城』のアンサーとしての『1Q84』について解説を終える。