『スワンの恋』を読む

プルーストは『失われた時を求めて』を書くに当たって、作中にいくつかの山場を設定した。大変長い物語を読むのは読者にとって苦痛であることを彼はよく承知していたので、彼らが最後まで興味を失わずに読み進められるよう、エンターテイナーとして盛り上がるところを作っておいたのである。

最初のクライマックスは2巻の『スワンの恋』の終盤にやって来る。今回はそれについて解説する。

まず確認しておきたいのは、小説における基本的なテクニックである。以前別の記事で解説した内容を再び引用する。

それは次のようなものだ。ある一つのことを執拗に何度でも繰り返す。文章は長く、長くなっていく。その中で最初に提示された一つの物事は、比喩やたとえ話などのさまざまな表現方法を用いられて変化しながら、しかし本質は元のままに、何度でも繰り返されていく。そうして一つの物事が変化を遂げながら執拗に繰り返されていくうちに読者の心理は変化していく。その反対の物事への疑念・可能性が無意識のうちに芽生えていくのだ。そうやって十分に疑念や可能性を植え付けた後に一気に物語を反対の方向へ持っていくと、読者は興奮し、感動する。急激な展開にももちろん納得し、面白さを覚える。

プルーストはこのテクニックを用いて『スワンの恋』の終盤を構築した。まずスワンはヴェルデュラン夫人のサロンで地位を失墜し、次に恋人オデットから袖にされて苦しむ。オデットから突き放されるシーケンスは非常に執拗に繰り返されるので、読者はうんざりさせられる。そのようにして念入りに読者の落胆した心理状態を作り上げた上で、今度はサン・トゥーヴェルト邸の夜会の場面において、参加者を得意の比喩でからかい、喜びの状態に持っていく。つまり反対の心理状態にする。この時にプルーストは独自のふざけたユーモアを連発する。このように不真面目な態度をこれでもかとやった上で、最終的に音楽に感動するという「真面目」なシーケンス――やはりこれも一つ前とは反対の心理状態――を叩きつけるのである。

上記の変化を簡潔にまとめると次のようになる。

  1. 落胆(オデットに突き放される)
  2. 悪ふざけ(夜会の参加者をからかう)
  3. シリアス(音楽に真摯に向き合い感動する)

つまりプルーストはセルバンテスの古典的なテクニックを用いて、三段階の変化をつけたのである。人は二段階の変化ではそれを単なる変化としか受け取らないが、三段階にするとそこに物語性を見出し、大いに感動するのである。次は光文社の高遠弘美訳からの引用。

小楽節が模倣し、再創造しようとしたのは、内面の悲しみが放つ魅力だった。そして、実際にその悲しみを体験していない者には共有もできなければ大したものとも思われないそれらの魅力の本質までも、小楽節は捉えて目に見えるものとしてくれたのである。それゆえ、小楽節はそこに居合わせたすべての人びとに――もし彼らに幾分なりと音楽家の素質があれば――その魅力の価値を認めさせ、その神々しい快さをじっくりと味わわせるのだが、彼らの実際の生活に戻ると、すぐ近くで生まれるそれぞれ固有の恋愛の中にさえ、そうした魅力を認めなくなってしまう。なるほど、そのような魅力を小楽節がひとつにまとめ上げた形式は、理屈では解決できないものだった。さりながら、一年以上前から、つまり、音楽への愛がたとえしばらくの間だとしても心のうちに芽ばえたことで、自らの魂の豊かさが感得できるようになって以来、スワンはさまざまな音楽のモチーフを別の世界の、あるいは別の秩序で構成された正真正銘の思想だと考えるようになっていた。言葉を換えて言えば、それは、闇のヴェールで覆われた、知性が中に入ることができない未知の思想であり、完全に相互の違いがわかる思想、価値も意味も均一でない思想であった。ヴェルデュラン家の夜会のあと、オデットに小楽節を何度も弾かせて、なぜこの楽節が香水か愛撫ででもあるかのごとく自分を取り囲み、包みこむのかを解明しようとしたことがある。そのときわかったのは、小楽節を構成する五つの音の間にわずかな懸隔があり、その中の二つの音が絶えず繰り返されることで、かじかんで縮こまったような優しい印象が生まれるということだった。だが、本当のところ、彼にはわかっていたのだ。こんなふうに理屈をつけるのは小楽節そのものに即した議論というわけではなくて、知性の便宜のために、神秘的な本質――ヴェルデュラン夫妻を知る前に、初めてこのソナタを聴いた夜会でスワンはそれに気づいたのだ――の代わりに置き換えられた、単なる数値の問題にすぎないということが。スワンは、ピアノの記憶そのものが、音楽にまつわる物の見方を歪めていること、さらに、音楽家に開かれている領域はけちくさい七つの音の鍵盤ではなく、いまだほとんど未知の世界の無限の鍵盤だということを知っていた。その無限の鍵盤では何百万とある鍵(キー)のいくつかが、前人未踏の厚い闇に隔てられて、ただあちこちに点在しているだけだ。鍵盤を構成する鍵(キー)はたとえば愛情や情熱や勇気や平静さの鍵(キー)だったりするのだが、ある宇宙が他の宇宙とは異なるように、互いに違っていて、それらを発見してきたのが偉大な藝術家だった。藝術家たちは、自分たちが見いだしたテーマに対応するものを私たちの中に目覚めさせ、ふつう私たちが空虚か虚無と見なしている、私たちの魂の、いまだ足を踏み入れたことのない、こちらを意気阻喪させるほど大きな闇夜のうちに、私たちが知らないだけで、どれほどの豊かさと多様性が隠されているかを労を厭わず教えてくれるのだ。ヴァントゥイユはそういう音楽家の一人だった。ヴァントゥイユの小楽節は、理性には曖昧に見えるとしても、極めて充実して明白な内容を備えていることが感じられるだけでなく、その内容にしごく新しい独創的な力が加えられているために、ひとたびそれを聴いた者は、知性が生み出すあらゆる思想と同等のものとして、自らのうちにしまい込むのである。スワンはまるで愛と幸福の概念に対するかのように、小楽節に立ち返った。そして、どういう点で小楽節が独創的なのかをたちまちのうちに理解したが、それは名前を思いだしただけで、『クレーブの奥方』や『ルネ』がどういう点で際立っているかがわかるのと同じだった。たとえそのことを考えていないときでも、小楽節は潜在的に彼の精神の中に存在した。その存在じたいが豊かな財産であり、私たちの内的領域が多様化し美しく飾られる契機となる光や音や立体感や肉体的快楽などの場合と同じで、他に例のないある種の観念のように、と言えばいいだろうか。恐らくはそんな諸概念も、私たちが無に帰るときは私たちから失われ、姿を消してしまうに違いない。だが、生きている限り、それらの概念を知らずにすますわけにはいかないのは、実在する物体をなかったことにはできないのと同じだ。たとえば、ランプを灯したとき、それまであった暗闇の記憶は部屋の外に逃げ去ってしまい、部屋の事物も変貌を遂げる。そのとき、私たちはランプの光そのものを疑うことはできない。それと似てもいよう。したがって、ヴァントゥイユの小楽節は、これも例を出せば、新たに抱く何らかの感情を私たちに示している『トリスタン』のある主題のように、私たち死すべき人間の運命を受け入れ、十分に感動的な人間的側面を獲得しているのである。小楽節の運命は魂の未来、魂の現実と結びついた。小楽節は、魂を飾るもっとも個性的で、いい意味でもっとも他とは異なる装飾の一つとなった。もしかすると、虚無こそが真実で、私たちが見る夢はことごとく存在しないのかもしれない。だが、そうなったときには、かような音楽の楽節にしても、私たちの夢に関わって存在する観念にしても、無に帰するだろう。そう私たちは感じる。私たちは滅びるだろう。だが、私たちはそうした楽節や観念という神聖な囚われ人を人質としている。それらは私たちと命運を共にするだろう。それらとともに死ぬとすれば、死の苦さは少し和らぐかもしれない。死の不名誉さもいくらかは減じるかもしれない。そして恐らくは、死はもっと不確実なものになるかもしれないのだ。

最後に、余談になるが、実は『ハックルベリー・フィンの冒険』も終盤でこの構造を採用している。すなわち、次のような流れになっている。

  1. 落胆(ジムを取り戻すべきかどうか、すなわち神に逆らうべきかどうか苦悩する)
  2. 悪ふざけ(トムと共に三人で悪ふざけをする)
  3. シリアス(逃走と、トムの自由に関する尊い発言)

もしかするとこの三段階の変化は普遍的に見られるパターンなのかもしれない。だがここで大事なのは、『スワンの恋』がこのことに非常に自覚的であった、ということである。文学では、同じことをする場合は、無意識的に自然に溢れて出てきたものよりも、自覚的に行われたものの方が威力を発揮するのである。意識的であるということは、すなわち自分が操ろうとしている道具について知悉しているということの表れである。自分が手にしている道具について熟知している者と、そうでない者とを比べたら、どちらがより良い仕事ができるかは自明であろう。