分裂と統合・その2

岩崎夏海が喝破したようにすべての文学には分裂という問題がつきまとっている。

例えばレイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど、役に立つこと』では、前に考察したように、書き手の思いは幸福な人々と不幸な人々の二者に分裂している。またフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は明確なドン・キホーテ型の主人公を採用しているが、彼は自分の心の中に描く理想的な恋愛と、現実のデイジーの二者に引き裂かれている。

文学の一つの焦点はこのような分裂がどのように解消されるかということにある。例えば『ドン・キホーテ』は、どうやら登場人物のドン・キホーテと書き手の二者に分裂しているようであり、おそらくはドン・キホーテの側に騎士道物語を肯定する心を、書き手の側に否定する心を割り振っているのだが、分裂した二つの内ドン・キホーテを死なせることによって問題を解決している。つまり「分裂が起きたら片方を死なせれば良い」というのが一つの解決手段としてあるようなのである。振り返ると『グレート・ギャツビー』もこの構図に似ている。ギャツビーは死ぬことによって現実を否定し、理想の側を取るのである。

逆に「分裂した二者を統合する」ということに力を傾ける作品も存在する。代表的なのは『ゲド戦記』の一巻だろう。ネタバレになるので詳細は避けるが、この小説は分裂と統合というテーマに正面から立ち向かった作品である。また『ささやかだけれど、役に立つこと』や『1Q84』も分裂した二者が統合される話として挙げられるだろう。とりわけ『1Q84』は二つの主人公が一章ごとに交互に登場し、最後になってようやく邂逅を果たすという話運びになっているので、このテーマに非常に自覚的であることが窺われるのである。

上記の二作品は分裂した二者の内どちらも死なずに見事な融合を見せるのだが、しかしその肩代わりとして大きな犠牲が求められる。前者の作品は子供とケーキが、後者は牛河という人物が死ぬことになるのである。

また、この分裂という問題はどうも性というテーマに近接しているようである。例えば『ささやかだけれど、役に立つこと』の主人公は夫婦である。影の主人公とも言えるパン屋の方は未婚であり子供がいないのだが、そのことが序盤で指摘され、終盤でも孤独ということに隣接する形で問題視されている。さらに、『1Q84』の二人の主人公は男と女であり、分裂しており、最終的に結合する。こう考えていくと『ゲド戦記』の一巻が何らの犠牲も出さずに融合を果たすのは、性というテーマを避けたからではないかという気が僕にはしてくるのだが、深く考察はできていない。

今日はここら辺で考察を終える。進展があればまた書きたい。

過去の記事はこちら: riktoh.hatenablog.com