生きていることに意味はない

これからの人類は「生きていることに意味はない」という真実とどう向き合っていけばいいか、その態度を問われることになるだろう。というか、もうすでに問われている。目に見える現象としては少子化がそれだ。

子供を作ることが不可能ではないはずなのにそうしようとしない人たちは、心のどこかで生きていることに意味はないと考えている。少なくとも生きている実感や意義深さというものを味わえないでいる。そして、そのことに囚われてしまっており、抜け出せていない。だから次の世代を構築しようとしないのである。ちなみに僕自身も半ばはそういう位置にいる人間だ。

だから今の芸術家がとるべき態度は、まず「生きていることに意味はない」ということを目の前にある現実として素直に認めることだ。それから、次にその現実とどう付き合っていけばいいかを考えることだ。

僕は強く主張するが、現代において「生きていることに意味はあるのか?」とか、あるいは「生きる意味はどのように掴めばいいのか?」とかいう問いを設定している芸術家は、もはや周回遅れの存在だと言わざるを得ない。時代は進んだ。すでにそれは人々の心を掴まない問いかけなのである。いま問うべきことは「生きている意味のない人生に対して人はどのような態度をとるべきか」ということだ。

しかし、この問題を語るのはむずかしい。理由は、前提の設定の仕方をネガティブだと受け止める層がいるからである。母性と諦観を身に付けていない人間はそのような捉え方をする。

すでに別の記事で説明したが、生きていることに意味はないという事実を知ることと、人生の意義を信じることとは別である。ただ、母性を備えていない人間は前者を肯定しようとすると、後者の信念にネガティブな影響を受けてしまう。それで彼らは、未熟なことだが、前者、つまり生きる無意味さというものを否定してかかるのである。人生は素晴らしいものだ、というわけだ。

そういう劣った人たちは脇に置いておき、我々はあるべき芸術家の姿を考えようと思う。

僕の見抜くところでは、現代では多くの人が潜在意識のレベルで、もうどうしようもないということを悟っている。今は「生きる意義を手にしようともがく」戦いは受けない。なぜなら、そんなものは存在しないということを無意識レベルで多くの人が認めつつあるからだ。しかし人生を完全に手放してしまうこともできない。自殺することはあまりにも辛いから、というよりは、生きる本能がまるで鎖のように働き、死ぬことを阻害してしまう、と言ったほうが正確なところだろう。人々は賢い。ニヒリズムに人生を乗り切る力はないということをしっかりと見抜いている。

前述したような狭間、すなわち人生の無意味さと、生きようとする本能の力の二律背反において、人々は苦しんでいる。これが芸術の取り組むべき典型的な構図だと僕は思う。もちろん僕自身もそういう形で辛さを味わっている人間だ。

母性が働くところでは、すでに述べたような厳しい前提のもとにおいても、生きる意志は健やかに継続される。それはあるがままに人生の無常を肯定し、かつ人の愚かな生をも肯定する。その二つは相剋せず、平和に共存する。そうして人は大人になり、仕事をして成長し、結婚して子供をつくることができる。

だから芸術家が描くべきは、母性そのものというよりは、どうすれば母性を自分のうちに誕生させ、かつ成長させられるか、ということだろう。物語を通じてそのような知恵を読者に授けなければならない。僕の見立てでは、すでに多くの作品がそれを描いている。小説では『1Q84』、映画では『シン・エヴァンゲリオン』などが相当するだろう。

僕もいつの日かそのような話を書いてみたいものだ。僕は苦しみの谷底でいま奮闘している。