『僕の名はポイチョフ』の構想

僕は『カラマーゾフの兄弟』を敵視している。憎んでいると言っても過言ではないだろう。ドストエフスキーが現代に甦ったら、目の前までいって顔面に右ストレートをぶちこんでやらないと気が済まない。その程度には怒っている。

なぜ僕はこの作品を敵視するのだろう。失敗作だと思っているからだろうか。これを読んでひどくつまらない思いをしたから怒っているのだろうか。いや、そうではない。僕はむしろこれを読んでとても感動した。非常に優れた作品だととらえている。

僕が真の意味で興味を惹かれるのは、文学作品がもたらす感動の「強度」だけだ。つまり、心の奥がじんわりと熱くなるように満たされたとか、激しく感動したとか、非常に悲しくて切ない思いをしたとか、そういう感動の「種類」にはあまり興味がない。そこはどうでもいい。そうではなく、その感動がどれだけ深かったか、大きかったかに興味がある。そして、強度が高いものには必ずそれをもたらすための仕組みが存在している、というのが僕の考えだ。じつは僕がほんとうに関心を持っているのはその仕組みの部分だけなのだ。他はどうでもいい。そのメカニズムを精緻に知りたいということだけが僕を走らせている究極の動機である。

『カラマーゾフの兄弟』の核をなす構造については、すでに読解して記事を書いた。また、いったい何が僕を怒らせるのかということについてもやはり別に記事を書いた。

ドストエフスキーはドン・キホーテやハムレットのような引き裂かれた演技的なキャラクターに強い関心を寄せた。それを体現するフョードルというキャラクターに負の部分を課し、彼を犠牲として死なせることで強い正の力を獲得した。そのエネルギーを読者の感動という現象につぎこんだのが『カラマーゾフの兄弟』という小説である。

僕はその構造に反対したい。主人公をドン・キホーテやハムレットのような引き裂かれた演技的なキャラクターにしたうえで、彼に最後まで踊り続けてもらいたいと思っている。終幕が訪れることで引き裂かれが解消されるという物語の展開を、やりたくないというのが僕の主張だ。そういう展開は安易に過ぎるし、普遍性がない。死はたしかに大事だし、そこで引き裂かれを解消させるというのは大切なことではある。でも人生においては死よりも生きている時間のほうがずっと長いのである。僕らが問うべきなのはそこをどう生きるかであって、どう死ぬかは晩年に考えればそれでいい問題だ。いや、正確には若い人も適切な時期から死を考えて準備しておくべきではある。けどそれはあくまでも二番目以降の優先順位でいいはずだ。それよりも生と死という狭間に立って生き続けねばならない過酷な運命にある僕らの、回転の仕方、踊り方をこそ真に問うべきだ。

なぜ僕はこうした主張をするのか。それは、じつは踊り続けることに障害を感じているからだ。それは簡単なことではないと思っている。支える力がなければ回転の力は衰え、独楽のほそい芯棒は倒れてしまうだろうと危惧している。負の力は強く、死と絶望の力は大きい。それに負けないための物語の仕組みを導入する必要がある。

それこそが今までこのブログで論じてきた古事記の二の姿だと僕は思っている。そして古事記の二の姿を構造の軸にした小説として、想定しているタイトルが『僕の名はポイチョフ』だ。僕はいつの日かこれを書きたい。やってみせるぞ、と息巻いている。だから早くこの構造について知を深めなければと思い、焦っているところもある。まだまだ僕は未熟なのだ。