『HUNTER×HUNTER』を読む

今回は漫画『HUNTER×HUNTER』について、思いつくままに書いてみることにする。まとまりのない記事になっている。

ルールを守る

ゴンとヒソカはよく似ている。彼らはルールに対する執着心があり、それをよく守る。例えばゴンもヒソカもハンター試験に参加し、合格した。彼らは天空闘技場でもルール内で戦って勝ち負けを競っていたし、グリードアイランドにおいてもそのルール内で暮らし、クエストの課題であるドッジボールに参加して勝利を収めている。ルールを守り、その中で勝ちを目指すのが彼らの在り方なのである。

対して、そうした在り方に反する存在として描かれているのが幻影旅団である。彼らはオークションというゲームにまっとうな形で参加するのを拒み、盗むことをする。グリードアイランドでもゲーム機から入るのをやめて、現実サイドから島への侵入を試みている。もっともこちらはルール違反ということで咎められ、失敗しているが。

さて、そんな共通点のあるゴンとヒソカだが、しかし一点だけ大きな差異がある。それは生命に対する倫理観だ。ゴンは人の命を奪うのはいかなる時でもよくないと考えている。これはおそらくドラゴンボールの主人公から作者が引き継いだものだろう。ヒソカは完全に逆で、命のやり取りこそもっとも面白いゲームなのだから、そこは自由にやらせるべきだと考えている。一見ヒソカがルール破りの非常識な人間だと思われる理由はここにある。この点を除いてヒソカの行動を振り返ってみると、むしろ彼はルールを守る側に属していると分かるはずである。こうしたゴンとヒソカの差異がもっともよく表れているのが天空闘技場における最後のシーンだ。

次はルールなしの真剣勝負(せかい)で戦ろう。♠

命をかけて♠

公平性と個の自由

もう一つゴンのゲームに対する態度について重要なのが、フェアネスを重視するということだ。個の自由を守る、と考えてもいいかもしれない。ゴンはグリードアイランド編では、ゲンスルーたちの提唱する組織づくりによるカードの独占、ゲームクリアーを否定している。彼らのやっていることはルールの範囲内であり、何一つ卑怯な点はないのだが、あまりにも圧倒的で効率的な攻略方法というものをゴンは認めないのである。お互いに勝ち目のある戦いというものにのみ彼は価値を認めている。それはたとえばハンター試験の最終試験における、ハンゾウとのやり取りにも表れているだろう。ゴンは圧倒的な力を持つハンゾウに対して、自分が納得のできる、しかも勝ち目のあるルールで戦うように提案するのである。結局ハンゾウはそれを馬鹿らしいと一蹴して否定するのだが、このシーンはハンターハンターの本質がよく描かれている場面だと思われる。

グリードアイランド編でもう一つ見逃せないのは、ゴンたちがゲンスルー一味を倒した後に彼らを治療することである。私はこれを、作者はゲンスルーを完全な悪だとは捉えていないということの証左ではないかと思っている。結局ゲンスルーのやったことの中で本作品の倫理に抵触しているのは、殺人のみなのでないか。ゲームに勝つために相手をだますことは否定されていないと思われる。というのも、まずゲーム自体が仲間割れやだまし討ちを誘発するような作りになっているし(カード化限度枚数という仕組みがそれだ)、だまし討ちを卑怯と言い始めると、ゴンのやったトラップによるゲンスルー攻略もまた否定されてしまうからだ。嘘や裏切りは戦略のうちなのである。

ゲームを通した相互理解について

最後にキメラアント編について述べる。この章の中で重要なエピソードは、ゴンによるネフェルピトー殺害と、キメラアントの王メルエムとコムギの件である。

ゴンは敵であるネフェルピトーを倒しているが、その際自分が今まで頑なに守ってきた「必要がない限りは殺さない」というルールを破って、圧倒的な力でピトーを殺害してしまう。その後にゴンが倒れてしまう点を考慮すると、このエピソードはかなり否定的に描かれていると受け取ってよい。ゴンは怒りの余り我を忘れて、ゲームのルールを守るという作中のもっとも気高い倫理を否定してしまったのである。その罰として彼は心身に大きなダメージを受け、念能力も喪失してしまうととらえると、つじつまが合う。仲間を殺されて我を忘れるほど怒るというのは、ドラゴンボールにおいては肯定的に描かれているのに対し、HxHでは否定的に描かれるのである。

逆にメルエムはルールというものをまったく考慮しない単なる暴力をふるっていた段階から、軍儀(ぐんぎ)のルールを通して種のことなる人間と固い絆を結ぶ段階にまで成長してみせた。本作品の倫理観に照らし合わせて考えると、個として勝利を遂げたのはゴンではなくメルエムの方なのである。ルールを尊重したうえで、どこまでも真剣にゲームに打ち込み競争してみせること。それこそが立場の違う者同士の真の相互理解に繋がるのである。

もちろん最終的には種としてのキメラアントは否定され、人間によって討伐される。もう一つの倫理である生命を尊ぶという点にキメラアントが抵触してしまった以上、そこは仕方がないことなのである。

種のレベルではともかく、個としては敵の方が勝ちを収めてエンディングを迎えるというのは、少年ジャンプの漫画としてはかなりアナーキーであると言っていいだろう。

留保のない怒りはありうるのか

前回に引き続きヒストリエを考察していく。

ヒストリエのテーマは個人の自由と怒りである。この二つは不可分に結びついており、分けて考えることができない。どういうことか。

ヒストリエにたびたび見られる現象に、怒りによって組織が崩壊してしまう、ということがある。カルディアの奴隷トラクスは主人テオゲイトンに虐げられていたが、鎖を外された途端にそれまでの怒りを爆発させ、主人の一家を惨殺してしまう。またエウメネスを買い上げたゼラルコスは、奴隷であるリュコンたちの蜂起に逢って殺されてしまうが、すぐに彼ら自身が乗っている船の操作に支障をきたすようになり、結局は難破してしまう。奴隷という組織の下部を支える人材が怒り出した途端、船という組織は崩壊してしまうのである。さらに言えば、ティオス市のダイマコスは村攻めの戦いのさなかに怒りを爆発させ、その結果兵を導くことに失敗し、自身も殺されてしまう。

このような出来事の延長上にエウメネスがサテュラを諦めたり、あるいはエウリュディケを諦めたりすることがあると考えると、理解がしやすくなる。つまり、この場合はエウメネスが個人の怒りを収めているので、組織である村や国は安泰に、順風満帆に運ばれていくのである。

「多くの人々の人生を踏みつけ踏み台にして2人だけの幸せをつかむ……。 それはそれで1つの生き方かもしれないけど、 おれやきみには無理だろう……?」

組織をまとめあげ一つの生き物として有機的に働かせるのに、怒りは邪魔者なのである。組織は個人の意思や感情を飲み込み、巨大な一つの生命体として動いていく。その時に初めて最大の力を発揮することができる。しかし個人がそれに反抗し、すなわち怒って自由というものを主張し始めるとどうなるか。組織は瓦解し、機能しなくなってしまうのである。だがそうなると、個人は普通組織に依存して生きているものだから、しまいには個人の居場所さえも失われてしまう。我々は怒りをいけにえに捧げ、組織というものを生かし続けていくしかないのである。

エウメネス前回の考察で述べたように、幼い頃のゆくたてが元で、思うがままの怒りというものを発揮しにくい性格になっている。事実彼はサテュラを諦めているし、復讐もその本懐は遂げず、幼い頃に家に向かってぶつけた怒りも後悔して、母親の墓に向かって謝罪しており、エウリュディケも諦めるのである。

さて、そんなエウメネスだが、果たして彼が留保のない怒りを発揮することはありうるのだろうか? これは、実に興味深い問いである。もしもそのような瞬間が訪れるとしたら、それは一体どういう状況なのだろう? あるいは、ないとしたら、彼は怒りをどのように消化するのであろうか。そのような大きな問いを、この作品は内に秘めているように感じられるのである。