『ロング・グッドバイ』の三人の医者

探偵小説『ロング・グッドバイ』について解説する。本稿ではハヤカワ文庫の村上春樹訳を参照している。

三人の医者を評価するマーロウ

主人公である私立探偵のフィリップ・マーロウは、作中において三人の医者に会いに行く。彼らの内のいずれかが、捜索を依頼されたロジャー・ウェイドという作家をかくまっている疑いが強かったからだ。

マーロウは順にヴェリンジャー、ヴュカニック、ヴァーリーという名の医者を訪ねる。この中でもっとも文章量が割かれているのはヴェリンジャーである。三人に与えられたページ数を順に挙げていくと、14P、9P、6Pとなる。その後マーロウは再びヴェリンジャーを訪ねてウェイドを見つけ出すのだが、ヴュカニックとヴァーリーはその後まったく登場して来ない上に、そこを訪ねて行った結果何らの手がかりを見つける訳でもないので、この二人を訪ねるシーンはまったくの無駄であるように思われる。

しかし本当は意味がある。実はこの医者を訪ねるくだりが理解できると、『ロング・グッドバイ』全体の物語の流れも理解できるようになっているのだ。

ヴェリンジャーにはアールという家族がいて、彼を庇護している。アールは精神の安定を欠いていて、時に保護者のヴェリンジャーにさえ暴力を振るう。しかし詳細は分からないものの、どうやらヴェリンジャーはかなりの犠牲を払ってアールを守っているようである。そのやり口には汚いところもあるが、ヴェリンジャーは少なくとも留保のない悪として描かれている訳ではない。

次におとずれるヴュカニックはみすぼらしいビルに診療所を構えているものの、正体は麻薬の売人である。彼はそのことをマーロウから言い当てられ、平静さを失う。そこでいったん別の部屋にひっこんで、自分に注射して気を大きくしてからマーロウに対処する。彼は小物の悪、といった感がある。

最後におとずれるヴァーリーは一見愛想のよい医師で、「豊かで柔らかな」、かつ「苦痛を癒し、心の不安をなだめる」声を持っている。だが実は財産のある老人達をなかば監禁して、その親戚達から多額の謝礼を受け取るという仕事をしている男だ。老人達はすでに衰弱しており、物事を判断する能力がなく、「死人のにおいがする」。ヴァーリーは医者というよりは、さながら死神のようである。

上記のくだりの中で注目すべきことは、マーロウが一人一人について価値判断をおこなっている、ということだ。彼の倫理観では、高い方からヴェリンジャー、ヴュカニック、ヴァーリーの順番に評価される。つまり訪ねていった順である。ヴュカニックは医者としてクズだが、ヴァーリーはさらにひどい。ヴァーリーのいる地点はまさに極北であり、荒廃しきっている。まともな人間はそこに一分たりとも長居すべきではない。彼らと比較すると、少なくともヴェリンジャーは、家族でもあり同時に患者のようでもあるアールを保護しようと努めている。ウェイドにうるさく金を要求したりもするが、ヴェリンジャーはまだ救われるべき存在として描かれているのだ。

そしてマーロウはこれらの価値判断を三者にくだした上で、結論として「ウェイドの居場所はヴェリンジャーの所だ」と突き止める。この一連の流れは、一体どのような意味を持っているのだろうか。

これは物語という観点から見れば、マーロウの求めるウェイドという人物にはまだ救われる可能性がある、ということを示唆しているのではないだろうか。捜索を依頼された時点でマーロウは、ウェイドがアルコール依存症であることをすでに知らされている。つまり道徳的に負の評価があたえられている。そこでマーロウが探しにいったのは、実はウェイドの「地理上の位置」ではなかった。そのようなろくでもない人物が魂の価値という座標軸上において一体どこに位置しているのか、ということが問われていたのだ。そのような一本のものさしを作成するために、作者・チャンドラーは三つの点を必要としたのである。チャンドラーは三つの点から一本の直線をつくり、それを道徳的な価値を測るものさしとした。そうした魂の計測を経た上で、ウェイドをヴェリンジャーという「善」の位置に置いたのである。

しかしこれだけではすべてを説明していることにはならない。「救われる可能性がまだ残っている人物として、ただ率直にウェイドを書けばよかったのではないか?」という疑問が残るからだ。

そこで私が言いたいのは、作者であるレイモンド・チャンドラーにも、この三人の医者を訪ねるくだりを書きはじめた時には、どこにウェイドがいるのか分からなかったに違いない、ということである。

チャンドラーの前にあるのは闇である。彼は、素手ではそれを照らせない。身を削って文章という明かりを作り出した時にのみ、彼は少しだけ正しい領域を確保できる。チャンドラーが作り出しているのは「地図」である。その地図にはどこが危険で、どこが正しいルートなのかが書いてある。しかしそれを発見するためには試行錯誤が求められた。正しいルートを確認するだけでは駄目なのである。実際に危険地帯の手前まで行って、見てから引き返さなければならない。そこでようやく地図は完成し、我々の求めている善なる目標が何であるかが明らかになる。この作品は、そのような運動の軌跡なのである。まさに文字通りの意味で「跡」なのだ。だから我々が『ロング・グッドバイ』を読んでいる時は、チャンドラーの魂の格闘が、一本のビデオ・テープのように心の中で再生されているはずである。『ロング・グッドバイ』が筋書きの割にはけっこう分厚い小説であることは、このような見地に立つことでおのずと了解されることと思う。一見無駄とも思えるそのような部分に寄り添うことで、我々は慰撫され、励まされ、さまざまなことを学んでいく。

繰り返されるパターン

この小説では次のような型を持った文章や挿話が随所に顔を見せる。それも様々な長さで表現されている。

  • (1) 二人一組である。
  • (2) ペアの内一方が一方を守る役割を担っている。
  • (3) 守護者は自らを犠牲にして、パートナーを守り切る。

マーロウが友人であるテリー・レノックスをかばって牢に入ったことが、一番分かりやすい例だろう。他の主要なエピソードとしては、作家であるロジャーが妻のために秘密を隠したまま苦しむというのがある。

小さな例としては、親鳥が子供を庇護する場面が挙げられる。人間が姿を見せているので危険だからと、親鳥は子供の鳥に注意をおこなって鳴くのを止めさせるのである。このような短いシーケンスの中にも上記の型が顔を出していると考えられる。さすがに訳者である村上春樹は仔細な描写を見逃さず、『多崎つくる』の中にこの場面を引用している。

ところで、三人の医者のくだりはやや長めの物語となっており、上記の定型がもっともよく表れていると考えられる。ヴェリンジャーはアールに手を焼かされているにも関わらず彼を守っているので、型の「正」の形であると捉えられる。ヴュカニックは医者であるから本来患者を守らなくてはいけないのだが、彼らに麻薬を売りつけて私服を肥やしている。ヴァーリーも同様であり、こちらは家族までが共犯になっているわけだから、さらに大きな悪である。これら二者は型の「負」の形であると捉えられる。つまり三人の医者のエピソードの中には、型の正と負のパターンの両方がコンパクトな形で収められているのである。

マーロウの選択

最後に、マーロウが物語の終盤でおこなう重要な決断について述べる。

『ロング・グッドバイ』にはさまざまな男女のカップルが登場する。レノックス夫妻、ウェイド夫妻、また主人公フィリップ・マーロウとリンダ・ローリングなどである。テリー・レノックスもアイリーン・ウェイドも金のために結婚して、何か大切なものを失ってしまう。彼らの結婚生活も人生も破綻してしまうこととなる。それらはあるべき「型」に沿っていない、悪しき関係性なのだ。

見るべきなのは、そのような事件を通過した「あとに」リンダ・ローリングやテリー・レノックスがマーロウの所にやってくる、ということだ。

リンダはマーロウに求婚する。裕福でないマーロウにとって、その申し出は魅力的なもののはずだ。しかしマーロウはためらわず断る。彼はすでに悪しき例といえるカップルたちを見てきたので、正しい道の方を選択することができたのである。

さらにマーロウはレノックスとも袂を分かつ。なぜならレノックスは結局のところ自己犠牲を完遂することができなかったからである。むしろ庇ったはずの相手は死んでしまった。それにも関わらずレノックスは整形手術をおこなって警察から逃げ、生き延びることに成功してしまっている。そのようなことをマーロウの倫理観は許容できない。彼はしたたかにレノックスに怒りをぶつけて、さよならを告げる。

こうして小説の全体を俯瞰してみると、主人公は多様な事件を経験しながらも、同時にまたひとつの物差しに沿ってそれらのケースを評価しており、それらを通り抜けてきた結論として終幕の場面で悪の誘いをはねつける、というストーリー構成になっていることが理解される。小説の作者は物語を作る者としての責務を担って、おのれの魂を懸けた選択を主人公にさせるのだ。

「ねえ、私たちってそこそこお似合いだと思わない?」と彼女はからかうように言った。「私には大きな財産があるし、それはまだまだ増えていくと思う。あなたのために世界を買ってあげることもできるわ。もしそんなものに手に入れるだけの価値があるとすればだけど。 それに比べて、今のあなたは何を持っているの? うちに帰っても誰が待っているわけでもない。犬や猫すらいない。 ほかにはみすぼらしいちっぽけなオフィスがあって、そこに座ってお客が来るのを待っているだけ。もし私たちの結婚がうまくいかなかったとしても、二度とそんな生活に戻らなくていいようにしてあげられる」
「戻るか戻らないかは自分で決める。テリー・レノックスとは違う」

(レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳『ロング・グッドバイ』)

補足

以下は余談となる。

すでに述べた「型」だが、より正確に言えば、次のような項目も加えられると思う。

  • (4) 守護者はパートナーから迷惑をかけられるが、それにも関わらず、彼・彼女を守り切る。

振り返ってみると、テリー・レノックスは冒頭からマーロウに迷惑をかけている。またアールはヴェリンジャーに暴力をふるう。

また、この型は聖書の随所に顔を出している。西洋の文化の根底にながれているパターンなのかもしれない。

すなわちモーセはエジプト人が同胞のヘブライ人を打っているのを見て、かばうためにエジプト人を殺すのだが、翌日別のヘブライ人ふたりが喧嘩しているのを見かけたので仲裁しようとすると、エジプト人を殺したことを彼らから槍玉にあげられて反発される。また、モーセは指導者となって民をエジプトから脱出させるが、道中くりかえし民から不平を突きつけられることになる。そのたびに主の力を借りてようやく民を納得させ、ついにエルサレムへとたどり着くのだが、主はモーセが約束の地に足をつけることを許さない。「『これがあなたの子孫に与えると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。』 主の僕(しもべ)モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。」