『日はまた昇る』を読む

ヘミングウェイの『日はまた昇る』を高見浩訳で一度だけ読了した。

ともかく一度目の感想としては、まったく面白くなかった。名高い古典でこれほど退屈な読書体験は珍しい。一体作中で何が問題になっているのか、何を面白いと思えばいいのかさっぱり分からないままにページが進み、気づいたら最後まで来ていた。僕は首を傾げて、本棚のヘミングウェイの本を集めた一角に同書を収めた。

それから数ヶ月が経った。

それで最近になって、にわかに『日はまた昇る』が思い起こされて来た。肌にじわじわと染み込むような形で、主人公ジェイクの苦しみが理解されてきたのだ。この小説では、作中でほとんど主人公の内面の描写がなされない。とりわけ主人公の苦悩というものがほぼ書かれていないので、僕にとってはこの感慨は随分意外なことだった。今この小説を顧みて分かるのは、ジェイクは非常に深い所で傷ついているということだ。その傷は魂にまで達しており、癒やされないまま血を流し続けている。しかし怒りをぶつけられる所はどこにもない。というか諦めが全身を覆っているので、怒ることも泣くこともできない。異性との結合による回復も不可能である。そういう袋小路に彼は閉じ込められている。ジェイクはにっちもさっちも行かない苦悩に浸っている。

そういう彼にできることは享楽に耽ることだけである。遊び続け、酒を飲み続ける彼の生活は、苦悩の裏返しである。もっとも、それは自棄的なものでは決してない。ジェイクの諦めはあまりにも深いので、自分を破壊しようとは思わないのだ。それは潔さと似ているが、そうとも言い切れない何かだ。

そのような苦しみの在り方が、肌身に迫るような形で理解できるというのが、『日はまた昇る』という小説の特長である。それが今の所の僕の理解だ。日を置いて二度目を読んだら、細部まで深く分かるかもしれない。

次の記事につづく。

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