嘘と疲労、そこからの回復ということ

嘘は文学において避けられないテーマである。小説は基本、嘘を書く。普通は嘘だけでほとんどを構築する。小説はそうした砂上の楼閣、雲のようなあやふやなものであるにも関わらず、読んだ人の心を動かし、確実に新しい何かを与える。それがすぐれた文学の在り方というものだ。

このテーマを考える上でポイントとなるのは、人間の性質である。人は嘘を信じる。正確に言えば、言葉を与えられると、素直にその内容を信じてしまう。最初から嘘だと決めつけることはまずしない。まずそれを正しいと仮定して話を進める。目の前に水場がなくても、ここから3キロ歩いたところに水場があると聞かせられたら、そう信じて遠い所まで歩いていく。そうやって検証する。そうでないと太古の人々は生きていくことができなかったのであろう。言葉を理解し、かつ信じる人間だけが生き残った。だから現代の我々も、やっぱり言葉や歴史を与えられると素直にそれを信じてしまう。そういう基本的な性質を持ち合わせている。

そうした性質はさらに発展を見せた。人は最初から「これは嘘ですよ」と言われている物語に対してさえ、騙されはしないにせよ、のめり込んで感動したり畏怖したりするという能力を持ち合わせるに至ったのだ。誰もエヴァンゲリオンを観て、あれが本当にあったことだと思う人はいない。しかし大勢の人がげんに感動しているし、場合によってはあの結末は良いとか良くないとか、登場人物のアスカは可哀想だとか、真剣になって議論をしている。これはほとんど現実に対する態度と変わりない。人によっては現実への態度以上に真剣だ。じつに驚くべきことである。

つまり人間は明らかな嘘を信じることができる。そういう能力を持っている。

嘘というテーマを考えるにあたって抑えなければならないことは上記のような人間の性質だ。そこに焦点を合わせて理解を深めることが肝要である。

たとえば多くの人が信じている物語として、「生きていることに意味はある」というものがある。これは完全な嘘だ。しかし嘘でも信じていかなければならない。生きることへの信頼をまったく失くしてしまうと、人は容易に自殺にいたる。そこまで行かなくても悪をなしたり、あるいは自己破壊的に生きるようになる。自分はもちろんのこと、周囲の人間にまで害をなすようになる。だからこれは幸福な社会を成り立たせるためには避けられない嘘だ。我々は日々お互いを教育し、悪を排除するよう努力しているのである。

こうした議論を経て分かるのは、嘘とは、嘘を信じるとは、努めておこなうものだということだ。これはきわめて人間的な事象なのであって、科学ではない。なにが正解だとか間違いだとか、結論を出したらそれで終わりというものではない。善は、生命の尊さや人生の素晴らしさ、あるいは神を信じるという不断の努力によって支えられているものなのだ。手を休めたら闇の侵攻を受け、我々は敗北してしまう。信じることは労働なのである。

こう考えると、拓けてくる視点がある。信じることが労働であるなら、それに疲れ切ってしまうこともあり得るのではないか。こうした疑問を持ち、極北地点からの回復ということを書いたのが村上春樹という作家だ。

三島由紀夫は『豊饒の海』で物語というものを完璧に否定した。彼は主人公を二つに分けた。一つは転生者であり、彼はいかにも華麗な物語を生きて劇的な死を遂げる。もう一つは地味な、現実的な人間である。彼は死なずに、凡庸な人生を生きて老いていく。言うまでもなく、前者が物語、後者がその読者なのである。三島はその両方を徹底的に破壊する。物語を壊すだけでない。物語を、嘘を信じるという読者の姿勢そのものを否定するのだ。

村上春樹は『豊饒の海』の結末から出発した作家である。彼は言葉がいっさいの力を持たない地点というものをまず認めた。それが存在するということを認めた。そしてそこに身を置いた。恐ろしい、芯から凍えるような冷気のなかに身を置いたのだ。するとそこから立ち現れてくる言葉は特別なものになった。村上は、作家には何の力もないという前提から出発して物語をつくる。したがって、その作品には何の力もない。端的な無である。それはあくまでも読者自身が、自己の内部からまだ見ぬ力、残された力を汲み上げてくるための装置に過ぎない。しかしそれは有効な装置だ。読者が自分の力だけで人生を営んでいくための力があることを気づかせる、優れた道具なのだ。これによって人は「信じる」力を回復させることができる。少なくともそこに至るための道が見えてくるのだ。

本稿ではひとまず村上春樹について語ったが、嘘や物語というテーマについてはこれからも考えていきたいと僕は思っている。たとえば名前は、物語のはじまりだ。名前というテーマについても思索を深めていきたい。