『二つの心臓の大きな川』を読む

ヘミングウェイの『二つの心臓の大きな川』を三回読んだ。それについて書く。

この作品は『日はまた昇る』同様にほとんど主人公の内面の描写に文章が割かれない。だが少ない心理描写に注目してみると、ニックはともかく森でのキャンプを謳歌しているようである。作品の冒頭で焼けて消え去った町が提示され、次にニックは森へと入っていく。つまり町はニックの心の荒廃した在り方を示しており、彼は自分を再生させるために森へと踏み入っていくのだが、そこでキャンプをしたり釣りをしたりすることで自分の心を回復させていく訳である。このようなストーリーの骨子自体は理解しやすいだろう。だがこの作品はこれで説明しきれるほど単純なものではない。

ポイントは二つある。料理と鱒だ。料理も釣りも、描写上は、決められた手続きを順に取るという点で似ている。どうも料理を作る過程をたどるのが文学の読者は大好きらしい。たとえば旧約聖書にも料理のレシピが出てくる。また「ロング・グッドバイ」という古典にも主人公がコーヒーを淹れる場面が出てくるのだが、それがとても印象的なのだ。料理の描写には独自の心理的効果が備わるようだ。といっても残念なことに、浅学な僕にはそれが何なのか説明しきれない。「二つの心臓の大きな川」のテーマに沿っているとすると、心の回復というのがあるようなのだが、いまいち確信がないのでここでは断言しない。

次に鱒そのものがある。これがこの短編の最大のポイントとなっている。

小石の川底の色を映している澄んだ茶色の川面をニックは見下ろして、ひれをふるわせながら流れの中に静止している鱒に目を凝らした。見ているうちに、彼らはさっと鋭く向きを変え、早い流れの中で再び静止した。ニックは長いあいだ彼らに見入っていた。
 流れに向かって鼻を突きだしている彼らを、ニックは見つめた。ガラスのようになめらかな凸面上の淵の水面を透かして底のほうに目を凝らすと、速い流れの中にたくさんの鱒がいる。彼らはすこし歪んで見えた。淵の水面は、流れに逆らって立つ丸太の橋桁に寄せてはゆったりと膨らんでいた。淵の底には何匹もの大きな鱒がいた。最初、ニックは彼らに気づかなかった。そのうち、水流にかきたてられて移ろう砂や砂利の霧を透かして、砂利の底にじっと静止している大きな鱒の群れが見えてきたのだった。
(ヘミングウェイ著 高見浩訳 『二つの心臓の大きな川』)

鱒の描写は生き生きとしている。それは何かを暗示しているようだ。しかしこの短編は特殊で、一切その暗示先を提示せずに終わりを告げる。「鱒の姿を目撃する → 鱒を釣る → 鱒を殺して捌く」という鱒に関する物語だけが語られて幕を閉じるのだ。そこで我々読者は放り出されたような気分を味わう。そして読後しばらくしてから正体不明の大きな感動に襲われるのだ。僕の体験について話すと、初めてこの短編を読んだ時のことだが、数日経ってから道を歩いている最中に突然そのような感動に襲われたので、困惑させられたことをよく覚えている。

うっかりすると我々は、鱒は多義的なものだと言いたくなる。それは様々なもののメタファーなのだと言って整理をつけたくなるのだ。だが、どうもそれは間違いのようだ。鱒を描くヘミングウェイの筆致は確かで力強い。そこに迷いというものは一切見られない。「多義的」な女々しさはまったく存在しないのだ。彼は正確に一方向をめがけて矢を放っていると言っていい。しかしその着地点を我々は見届けることができない。ヘミングウェイがそれを断ち切り、完璧に隠しているからだ。その結果驚くべきことが起きた。放たれた矢がいつまでもどこにも的中せず、空を飛び続けるという奇跡が起きたのだ。

ヘミングウェイは暗喩という技法を知悉していた。暗喩には二つの物が必要である。暗喩するものと、暗喩されるものだ。そこで彼は後者を完全に隠すという特異な変形を実行することにした。その結果文学作品は、純然たるメタファーの力だけを保持するようになった。それは永遠に終結することのない力の作用である。いつまでも飛び続ける矢を作り上げることに彼は成功したのだ。それがどうも『二つの心臓の大きな川』という作品らしい。