『金閣寺』の文体について

三島由紀夫の『金閣寺』の文体について書く。

金閣寺の文体の特色として、文末が多彩なことが挙げられる。次に例を引用する。

 寝ても覚めても、私は有為子の死をねがった。私の恥の立会人が、消え去ってくれることをねがった。証人さえいなかったら、地上から恥は根絶されるであろう。他人はみんな証人だ。それなのに、他人がいなければ、恥というものは生れて来ない。私は有為子のおもかげ、暁闇のなかで水のように光って、私の口をじっと見つめていた彼女の目の背後に、他人の世界――つまり、われわれを決して一人にしておかず、進んでわれわれの共犯となり証人となる他人の世界――を見たのである。他人がみんな滅びなければならぬ。私が本当に太陽へ顔を向けられるためには、世界が滅びなければならぬ。

次の箇所では、文末に「た」を連続させておいて、段落の最後の一文の末尾に「を」を持ってきている。ずっと続いていた同じ音が最後に心地よく裏切られるので、読者は印象的に思う。

 さて父は私を導いて、うやうやしく法水院の縁先に上った。私はまず硝子のケースに納められた巧緻な金閣の模型を見た。この模型は私の気に入った。このほうがむしろ、私の夢みていた金閣に近かった。そして大きな金閣の内部にこんなそっくりそのままの小さな金閣が納まっているさまは、大宇宙の中に小宇宙が存在するような、無限の照応を思わせた。はじめて私は夢みることができた。この模型よりもさらにさらに小さい、しかも完全な金閣と、本物の金閣よりも無限に大きい、ほとんど世界を包むような金閣とを。

また、ともかく読点が多い。読んでいる者がうっとうしさを覚えるほどに多い。これは主人公が吃りと設定されていることに呼応している。

 父の死によって、私の本当の少年時代は終るが、自分の少年時代に、まるきり人間的関心というものの、欠けていたことに私は愕くのである。

さらに言うと、長くて読点が多い一文が高い頻度で登場する。

紅葉の盛には、紅葉の色と、この白骨のような建築とが、美しい調和を示すのだが、夜だと、ところどころ斑らに月光を浴びた白い木組は、怪しくも見え、なまめかしくも見える。

 

月や星や、夜の雲や、鉾杉の稜線で空に接した山や、まだらの月かげや、しらじらとうかぶ建築や、こういうもののうちに、有為子の裏切りの澄明な美しさは私を酔わせた。

 

飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。

 

そこを見上げている私の心は、降り込む雪片が、究竟頂の何もない小さな空間を飛びめぐり、やがて壁面の古い錆びた金箔にとまって、息絶えて、小さな金いろの露を結ぶにいたるまでの、逐一を見るのであった。

 

二つの煙出しを持ち、斜め格子の硝子窓を持ち、ひろい温室の硝子屋根を持っている邸は、いかにも壊れやすい印象を与えるが、当然そこの主人の抗議で設けられたにちがいない高い金網が、道をへだてたグラウンドの一辺にそそり立っていた。

対して、短い文の登場頻度は少ない。時折出てくる短い文は、その短さに加えて読点がないので、素早くさっと前を通り過ぎる感じがあり、心地よくリズムを乱すので、その前後が強く印象に残る。

 夜空の月のように、金閣は暗黒時代の象徴として作られたのだった。そこで私の夢想の金閣は、その周囲に押しよせている闇の背景を必要とした。闇のなかに、美しい細身の柱の構造が、内から微光を放って、じっと物静かに坐っていた。人がこの建築にどんな言葉で語りかけても、美しい金閣は、無言で、繊細な構造をあらわにして、周囲の闇に耐えていなければならぬ。
 私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。他の鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。
 そうして考えると、私には金閣そのものも、時間の海をわたってきた美しい船のように思われた。美術書が語っているその「壁の少ない、吹ぬきの建築」は、船の構造を空想させ、この複雑な三層の屋形船が臨んでいる池は、海の象徴を思わせた。金閣はおびただしい夜を渡ってきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間というもの、このふしぎな船はそしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委せ、夜が来ると周囲の闇に勢いを得て、その屋根を帆のようにふくらませて出帆したのである。

 

「どこへ行こう」
 私はそれに答えて、どこかへ行く前に金閣をしみじみ見てゆきたい、明日からはこの時刻に金閣を見ることはできなくなるし、われわれが工場へ行っている留守に金閣は空襲で焼かれているかもしれない、と言った。私のたどたどしい言訳はしばしば吃り、鶴川はそのあいだ、呆れたようなじれったい表情できいていた。
 これだけ言い了った私の顔には、何か恥かしいことを言ったあとのように、夥しい汗が流れていた。金閣に対する私の異様な執着を打明けた相手は、ただ鶴川一人であった。が、それをきいている鶴川の表情には、私の吃音をききとろうと努力する人の、見馴れた焦燥感があるだけだった。
 私はこういう顔にぶつかる。大切な秘密の告白の場合も、美の上ずった感動を訴える場合も、自分の内蔵をとりだしてみせるような場合も、私のぶつかるのはこういう顔だ。

総括する。金閣寺は全体的に一文は長くなる傾向にあり、読点も多い。したがって読者は遅めの速度で文章を読むことになる。加えて言葉遣いが難解な部類であることを考慮に入れると、鈍重で無骨な印象は避けられない。文章の内容自体は切れ味が鋭いのだが、表面の雰囲気は硬く、きらびやかな感じは薄いと言える。短い文の登場頻度が低いことを鑑みると、文末が多彩であることは読書体験をアップテンポにする方向には働いておらず、読者としてはむしろ歩みを止めるたびにいちいち異なる姿勢を取ることを要求されているようであり、面白さはあるのだが、スピードの低下を引き起こしている印象は否めない。

このような基調の文章が長く続くが、最後になってついに反転が起こる。クライマックスにおいて短い文の密度が高くなるのである。

 煙は私の背に迫っていた。咳きながら、恵心の作と謂われる観音像や、天人泰楽の天井画を見た。潮音洞にただよう煙は次第に充ちた。私は更に階を上って、究竟頂の扉をあけようとした。
 扉は開かない。三階の鍵は堅固にかかっている。
 私はその戸を叩いた。叩く音は激しかったろうが、私の耳には入らない。私は懸命にその戸を叩いた。誰かが究竟頂の内部からあけてくれるような気がしたのである。

ここは実に印象に残る場面である。それまでとは逆に短い文が連打される。その上で、最後に長めの文が読点なしにやって来るので、読者は大きなショックを受けることになる。「誰かが究竟頂の内部からあけてくれるような気がしたのである。