世界で最も偉大な小説と二番目に偉大な小説

愚かな物好きの話

世界で最も偉大な小説はセルバンテスの『ドン・キホーテ』である。特にその中の短編『愚かな物好きの話』がそうだ。セルバンテスはそこで小説におけるもっとも基本的なテクニックを構築し、誰にでもわかる形で明らかにしてみせた。

それは次のようなものだ。ある一つのことを執拗に何度でも繰り返す。文章は長く、長くなっていく。その中で最初に提示された一つの物事は、比喩やたとえ話などのさまざまな表現方法を用いられて変化しながら、しかし本質は元のままに、何度でも繰り返されていく。そうして一つの物事が変化を遂げながら執拗に繰り返されていくうちに読者の心理は変化していく。その反対の物事への疑念・可能性が無意識のうちに芽生えていくのだ。そうやって十分に疑念や可能性を植え付けた後に一気に物語を反対の方向へ持っていくと、読者は興奮し、感動する。急激な展開にももちろん納得し、面白さを覚える。

このメソッドは小説にとって非常に有用なものだった。まず、これを使うと小説を長くかける。長く書けば商品になるから、職業的作家としてやっていけるようになる。次に、凝ったテクニックを用いることができるので、書いている側としては気分がよいし、商品としての説得力も増す。最後に、読者の心理を狙った方向へと誘導できるので、作者の意図を物語に反映させやすいというのがある。

また、このメソッドは使い方の工夫や改造が効いた。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』でこのテクニックを用いて読者を感動させ、歴史的な成果を上げた。彼は人間の汚い点をこれでもかというほど様々な方法や角度で長く長く描き、しかし最後の最後に一点だけ人間の心のきれいな在り方を描いたのである。するとこれが凄まじい爆発力を獲得した。『カラマーゾフの兄弟』は小説の名作として殿堂入りし、知らない者はないというほどの評判を手に入れたのである。

マルセル・プルーストはセルバンテスのメソッドを根幹から見直し、「次から次へと変化する」という性質に着目して比喩という方法論を上乗せした。一つの事物を得意のメタファーによって次から次へとメタモルフォーゼさせていくという手法がそれだ。さらに、彼は読者の心理を反対の方向へと変化させるのを嫌い、最初の事物に戻ってくるようにさせた。いわば一つの直線を閉じて円環となしたのである。それによってプルーストはどこまでもいつまでも読者をメタファーに陶酔させることに成功したが、結果として大衆には共感しにくい、芸術的に過ぎる小説となってしまった。

1Q84

では二番目に偉大な小説とは何だろうか? それは村上春樹の『1Q84』だ。彼はセルバンテスとそっくり逆のメソッドをこの小説の中で明らかにしている。

まず恐怖や不安のような、自己の感情のゆらぎが文脈の中の前提としてある。それらが登場人物を不安定にしている。そこへ村上春樹は「端的な繰り返し」を投入する。例えば次のような文章だ。

「もうこわくない」と彼女は疑問符抜きで尋ねた。
「もう怖くはないと思う」と天吾は答えた。

 

「よかった」とふかえりは抑揚のない声で言った。
 よかったと天吾も思った。

するとそれまであった感情は打ち消され、登場人物は(ひいては読者は)落ち着きを得るのである。これが村上春樹のメソッドだ。

あまりに単純すぎるので唖然とする人もいるかもしれない。しかしこれこそが小説における二番目の原則とも言うべき方法論なのだ。今後この手法は広まり、当然のようにあちこちで使われるようになるだろう。

村上春樹がこの方法論について自覚的なのは、次の一文からもうかがわれる。

呼吸もいつもの穏やかな呼吸に戻っている。

短い一文の中で「呼吸」という単語が二度繰り返されている。同じ語句を短い間隔で繰り返すのは良くないという小説における基本的な構文を、彼はあえて破っているのである。そこから、作者は方法論について自覚的であるということが推測されるのである。「戻っている」というのも見過ごせない表現だ。感情が打ち消され落ち着きを得るという特徴が、この「戻っている」という動詞の中に表現されている。

「呼吸もいつもの穏やかな呼吸に戻っている。」村上春樹がこの一文を書いた瞬間歴史は形成され、史上二番目に偉い作家であるという名誉が約束されたのである。

比較表

セルバンテスの手法村上春樹の手法
雄弁が評価される。沈黙は金である。
テクニックがある。テクニックがない。
ひとつのものが次から次へと変化する。変化しない。
執拗である。端的である。
長い。短い。
読者に強い感情を揺り起こす。読者の感情を打ち消し、落ち着かせる。
発酵食品のような独特の味わいを持つ。すっきりした味わいを持つ。

最後に

ただし、彼らの手法には一つだけ共通点がある。それは繰り返しということだ。どちらも繰り返しという基本的な技法の上に方法論が構築されている。したがって繰り返しというのは文章にとって極めて本質的であるということが、このような議論を経ると、改めて痛感させられるのである。