『心は孤独な狩人』を読む

村上春樹の訳でカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』を読んだ。とてもいい小説だった。それについて書く。

本作の中心人物は聾唖のシンガーである。彼を軸に言葉というテーマがかたちを変えて幾度も語られている。多くの人物がシンガーに向かって言葉を尽くして語りかけることや、次のような箇所から、言葉で人に語りかけるということが中心的なテーマであることが察せられる。ページ数は文庫版による。

  • p10 家に帰るといつも、シンガーはアントナプーロスに向かって話をした。彼の両手は次から次へと敏速に言葉を描き出していった。
  • p109 「憤怒は貧困に咲く最も貴重な花だ。そのとおり」 語るのは良きことだ。声の響きは彼に喜びを与えた。
  • p116 「おれはそもそも言葉というものが好きなんだ。」
  • p127 「言葉を使わない言い合いだってあるんだよ」とポーシャは言った。
  • p135 彼は妻に対して、自分の心にあることのすべてを熱心に説き、語り尽くしたものだ。
  • p233 彼は同胞である病んだ辛抱強い黒人たちの顔に向かって、言葉を絞り出すように語りかけた。
  • p313 (コープランド医師がクリスマスの日にカール・マルクスの偉業について語る。しかしp329において次のように否定される。)さっき話したことは、どれだけみんなに理解されただろう? それはいかほどの価値を持っていたのだろう? 自分が口にした言葉を彼は思い返してみた。しかしそれらは色褪せ、力を失っているように思えた。
  • p339 今ではそれが、彼の脳裏に常に浮かぶアントナプーロスの姿になっていた。彼こそが、まわりで起こったものごとをすっかり語りたいと思う友人である。
  • p492 (ジェイクとコープランド医師が口論をするが、分かり合えない)
  • p516 「父さんはあまりにたくさんのことを看板に書き込もうとして、おかげで何も読めなくなってしまったわ」とミックは父親に言った。

本作では、基本的に言葉はいつも虚しくなる。大勢の人がシンガーに語りかけるが、返ってくるのは沈黙ばかりである。コープランド医師は言葉を尽くして子供に崇高な目的を与えようとするが、失敗するばかりか、家族離散という目にあう。ジェイクは言葉をもちいて人々に貧困の改善を訴えかけるが、通じず、彼のいうところの知覚した人間という仲間も得られない。ジェイクとコープランド医師は目的が近いにもかかわらず、友人となるばかりか喧嘩別れする始末なのである。彼らは言葉を戦わせて分かりあおうとしたが、できなかった。ミックの父親があまりにたくさんの言葉を看板に書き込んだものの効果がなかったことは、端的にこの言葉の虚しさの傾向を示している。

言葉はつねに沈黙の前に敗北する。シンガーはなにも語らないまま多くの人に承認を与え、彼らを満足させる。彼の沈黙はそれだけ偉大であり、相手の言葉に勝るのである。それはつねに愛という名の忍従と優しさ、母性を含んでいる。このことはコープランド医師の妻が見せた態度と共通している。言葉は攻撃であり、世の中を改善しようという善をめざす奮闘であり、父性であり、現状に満足しないことなのである。それは神への不信心を含んでいる。沈黙はすっかりこの逆だと捉えるとわかりやすい。

言葉という父性をくじき、沈黙という名の母性を確立させるのが小説の目指す方向性であると捉えると、本作が群像劇であることの意味も分かってくる。母性は包括的である。それは男も女も大人も子供も黒人も白人も包み込んで、自らのうちに含もうとする。著者がミックやコープランド医師を描く文章にはあきらかに優しさと憐れみが籠っている。相手の人格をまるごと尊重し、希望や、傷ついた心の機微をまざまざと描き出している。我々はその筆致に感動をおぼえ、それらの文章を通じて、自分の心の奥にある普段はだれにも見せない部屋を訪ね、おのれを慰めたり励ましたりするのである。

マッカラーズが目指したものは、『ドン・キホーテ』や『カラマーゾフの兄弟』、『失われた時を求めて』といった、変幻自在の言葉をあやつるタイプの小説の克服であった。彼女はその手の小説に欠けているものを見抜き、本作において彼らを「言葉」としてひとまとめに扱い、自らの目指す価値観と戦わせた。それこそが人の傷ついた心のありように目を配り、大切に扱う姿勢に他ならない。

この手の方向性の小説は、じつは枚挙にいとまがない。たとえば『ゲド戦記 影との戦い』は冒頭で沈黙の大切さを謳っているし、『日はまた昇る』はすでに本ブログで詳細に解説しているが、主人公の沈黙の姿勢が作品構造の基盤となっている。『1Q84』もあえて大切なところで沈黙を貫いている箇所が散見される。沈黙は非常に大きな文学的潮流なのである。

ここまでいろいろ書いてきたが、じつは本作はあまり分析というものが意味を持たない作品である。読者はたんに丁寧に小説を読んでいき、自分の心を震わせる箇所を発見するだけでいい。そしてそれを大切に記憶にとどめ、幾度も味わうだけで充分だと僕は思う。