愚者を補完する

前回の記事からの続きである。

愚者は狂っている。彼は明らかな嘘を信じているので、そのために狂っていると捉えられる。

では、この場合の「狂う」とはいかなる意味だろうか。嘘を信じようとしたら、彼はまず「これは本当のことなんだ」と自分自身に信じ込ませなければならない。その力は現実を知っているもうひとつの自分に抑えつけられる。その抑えつけてくる力を感じながらも知らないふりをするということが、愚者には必須のことである。彼は目の前にガラスの壁があっても、知らずにそのまま歩みを進めてぶつかる。しかしぶつかったところでガラスの壁の存在を認めることはしない。ここは自由な空間であり、そのまま行き来できるはずなのだと彼は主張する。その姿は傍目から見て滑稽であり、人の笑いを誘う。

実はこの行為は言ってみれば他者との共同作業なのだ。彼は全力で「知っている自分」を忘れようとする。しかしそれを完全に手放してしまうと彼は愚者ではなくなり、単なる痴れ者ということになってしまうだろう。そこで彼は「知っている自分」を他者に割り当てる。彼はそのようにして即興の劇を演じているのだ。嘘を信じる役を自分に割り当て、嘘を嘘と知っている役を他者に割り当てる。そのように命綱を用意することで、彼は安心して全力でおのれを嘘に埋没させることができる。

愚者においては自己と他者との境界線はあいまいである。彼は自己を拡張し、世界そのものへと近づける。世界は劇場であり、自分はそのなかの役者であると同時に、指揮をとる監督でもあるのだ。愚者は部分であると同時に全体なのである。では他者はどうなのかと言うと、彼はそこにおいては役者であると同時に観客でもある。つまり愚者と他者の役割は微妙にずれているわけだ。愚者はより危険であり、他者はより安全である。自分の身を沈めるほどに嘘とかかわるというのは、じつに危うい行為なのだ。

言い換えれば、愚者は献身的である。劇場という祭壇において、物語という神を復活させ、生かすために用意された生贄。それこそが愚者であり、彼はみずから進んでその役割に就く。

しかし問題は、それが死を招くということだ。我々は現実には犠牲という役割を完遂したくはない。これが本当に劇なら、ハムレットよろしく死んでもいいわけだ。にせものの死を演じることなら誰でも可能だろう。だが今を生きる我々の前に広がっているのは果てしのない現実のみである。そこで愚者を演じるときに問題となるのが自分の死である。これからの小説はそれを回避していかなければならない。なぜなら小説とは、現実に生きている人に対して、生きるコツややり方というものを教えるものだからだ。そこでポイントになる機構が、古事記の二の姿だろうと僕は踏んでいる。

愚者には、ドン・キホーテがサンチョ・パンサを従えたように、助手役というものが必要になる。僕の案は、言ってみればそのサンチョ・パンサの役割を拡大しようということである。古事記の二の姿のように、彼は状況に応じて愚者と交替して、表に立つ。愚者は裏に回り、助手役に庇護されて、そこで自分を回復させる。ここら辺の機構について僕の理解や考察はまだ浅いので、今後は深堀りしていかなければならないだろうと思っている。

それでもあえて踏み込んで話すなら、僕のやりたいと思っていることは、カタルシスを小規模にして調和を増大させるということだ。「カタルシスを小規模にしたら、当然物語の面白さも半減してしまう」という意見はあるだろう。それは正しい。ただ、『ドン・キホーテ後篇』や『豊饒の海』といった作品を読んでいて僕が思うのは、あんなことはしたくない、ということだ。あんな物語は作りたくないし、あんな生き方はしたくない。僕はもっと普通に生きたいし、普通に作品を作りたい。作品のために死にたくない。むしろ作品を作ることで自分を生かしたい、回復させたいと願っている。

したがって、そこでは古事記の二の姿による入れ替えという機構が役立つだろう。入れ替えにはドラマの力を減じる作用がある。それは古事記を読めば分かることである。またカタルシスを小規模に育てるという手法は、発展させれば安全にカタルシスを大規模まで育てて引き起こすことも可能なのではないかという仮説が成り立つ。この仮説がもし正しければ、僕のやり方でも既存の作品に負けないものが作れるはずである。僕は安全に面白さの大爆発を引き起こす。愚者の死を否定する。それがこの記事で僕が言っていることの狙いである。