愚者の系譜

人類が誕生してから数百万年が経過した。そのあいだ、様々な人が生まれては死んでいった。その中でもっとも人類に貢献した人物は、僕の考えではたった一人に明確に定めることができる。

それはスペインの作家のミゲル・デ・セルバンテスだ。

彼は物語に関するいちばん強力で普遍的な原理を明らかにしてみせた。それはこういうことだ。物語は、物語という概念そのものをテーマとするときに最大の力を発揮する。セルバンテスはこの原理を発見し、かつ実証となる小説を書いて発表した。それが『ドン・キホーテ前篇』である。

彼は物語の本質を喝破してみせた。それは端的に、嘘である、ということだ。この世に存在するいかなる物語も信仰も嘘であり、真実でない。かつて本物であった物語はこの地上に存在しなかったし、これからも存在しないであろう、とセルバンテスは見抜いた。そこで彼は「愚者」という物語の機構を作品に投入する。愚者とは言い換えると、明らかな嘘を信じる存在のことだ。したがって彼はその生まれの由縁からして、狂っている。愚者は献身的に働き、他者のための犠牲となる。愚者は叩かれ、踏みつけられ、そうして人に活力を与え、なにより大切な「物語を信じる力」を人に付与する。彼を中心とする力場においては物語は本物であり、現実なのである。この愚者とは、要するに主人公のドン・キホーテのことだ。人生に意義はあり、いかなる状況でも希望はあり、人には幸福が授けられうるということをドン・キホーテは説く。それが嘘であり、現実は理不尽であるということを知りながらも、説く。その姿に読者は感動を覚え、救われた気持ちになる。

しかし愚者もけっきょくは一人の人間であり、個人である。彼ひとりだけが負債を背負いきることはできない。愚者にはかならず隠された苦しみがあり、切実な痛みと涙がある。それを支え切ることができないとき、彼は悪魔となる。『ドン・キホーテ後篇』のはじまりである。セルバンテスはそこで、せっかく作り上げた『前篇』をこなごなに砕く。読者に底意地の悪い愚弄をぶつけ、ドン・キホーテを彼らから取り上げて、無惨に殺す。『後篇』は私怨の書以外のなにものでもない。それは書かれるべき本ではなかったのだ。

こうした系譜を精神的に受け継いだ存在として、三島由紀夫の『豊饒の海』がある。作者の三島は転生者を物語の主人公、本多繁邦を物語の読者を象徴する存在として描いた。転生者は前半、すなわち第一巻と第二巻においては優雅な活躍をし、読者を楽しませる働きをする。本多は読者を代表する存在だが、その中でも特に、物語を信じない、嘘だと知り抜いている人物である。つまりニヒリズムの側の人間だ。だから本多は物語の中に踏み込んでいかない。言い換えると、本多は転生者に本当の意味では関与せずに、傍観者になるのである。しかしそんな本多にも、人間味というか、物語を信じる心がかけらもないわけではない。そこで彼は死に際に意を決して、転生者のかつての婚約者である聡子に会いに行き、転生者の思い出を語ろうとするのだが、それも打ち砕かれる。聡子の口からすべては嘘であったと宣言がなされるのだ。三島はそのように念入りに物語というものを破壊するのである。あとに残るものは無だけだ。

やがて、こうした『豊饒の海』の主張に反対する者があらわれる。作家の村上春樹である。彼は主人公の愚者について再考した。なぜ愚者は完璧なまでに自己犠牲を遂行しなければならないのだろうか? 自己犠牲が尊いのは、ひとが利己心を克己して利他的に働くからだ。しかし犠牲となる自己も、また世界を構成する一個人であることに変わりはない。なぜ利他の対象に自分を入れてはいけないのだろうか。彼はそう考える。そこで村上はバランス精神のある愚者を描く。『ドン・キホーテ後篇』の疲弊した愚者というテーマを拾い上げて、彼は静かに考える。彼は怒りへの移行を否定し、まず疲弊した自分自身の心の在り方というものをじっと観察することにした。そこからの回復というものを彼は作家としての大切なテーマとして研鑽し、物語を「信じる」ということについて新しい独自の態度を打ち出したのだ。それが『1Q84』である。