影と鏡像4

主人公が引き裂かれの状況に置かれている時に、二つの異なる道の融和を図らざるをえないのは、往々にして作者にとっても困難な道である。なにが善であるかなにが悪であるかが自明ではないという状況下で、作者はまったく新しい大柄な倫理観を創出して、読者へ提示しなければならない。

この場合の引き裂かれには、表面の層でどのように表現されていようとも、けっきょく底の層では願いと良心という二者の葛藤が存在している。願いと良心はときに混ざり合って混沌としており、引き離して整理ができないために本人は不安と焦燥を抱えている。あるいは二者が強烈に分裂しているために、本人は激しい痛みを抱えてのたうち回っている。

善と悪が自明であるときの引き裂かれの構図は、世界対自己、あるいは特定の他者対自己となる。これはわかりやすく単純であろう。しかし善と悪が自明でないときの引き裂かれの場合は、その構図は判然としないものになる。なぜなら自己の心そのものが強く問われているからだ。この場合の自己とは、片付けのできていない汚れた部屋のようなものである。そこでは打ち砕かれたコーヒーカップが床に落ちており、本棚は倒れて書は散乱している。それは窓の割れて冷たい風が吹き込んでくる、くたびれた部屋だ。

我々はその部屋を片付けて整理すべきである。しかし、できない。なぜなら心は内部にあるからだ。それはどんな名医も自分で自分の内臓の疾患を手術するのが難しいのとよく似ている。だが自分の心はあくまでも自分がなんとかしなければならないのもまた事実である。それが一個の人間としての責任だし、実は心の底で本当に自分が望んでいることでもあるからだ。

そこで登場するのが影と鏡像である。影や鏡像、およびそれに相当する何者かは、かならず主人公の心の在り方を反映している。この反映の手法をもちいることで物語の作者は自分の心の中を覗き、整理していくことが可能となる。

分かりやすい例としてカフカの『城』がある。Kは自分で自分を捉えることのできない人物だ。これは作中の事実レベルでそうであるというよりも、作者が物語をつくる層で起こっている特徴と言える。その証拠として、Kの過去は作中でほとんど語られないし、わずかばかり語られている箇所も物語に有機的に結びついてはいかない。またKの趣味や好き嫌いといったことについても何も語られない。Kはカフカそのものだが、その正体は不明である。彼は自分で自分が見られないのだ。

そこでカフカはひとつ策をこしらえる。Kの前に鏡を置くのである。それで彼は自分の姿が見られるようになる。

その鏡の例として分かりやすいのがバルナバスだ。すでに別の記事で解説したが、Kがバルナバスの家を訪ねて姉のオルガから彼の話を聞かされるときに、バルナバスはじつはKとほとんど立場が変わらないということに気づかされるのである。バルナバスもほとんど城に到達できない。Kは宿屋のおかみから「どこへいこうと、あなたはここではいちばん無知な人間なのだということを、はっきり意識していて下さいよ」とか「あなたはこの土地ではすべてをまちがって見ているのよ」と言われるが、Kもじつはオルガを通じてバルナバスに向かって似たようなことを言う。

「では弟さんはけっして何かをなしとげることはできないでしょう。両眼に繃帯した人に向って、繃帯を通して眼をじっとこらすようにといくら元気づけたところで、その人はけっして何かを見ることはできませんからね。繃帯を取り除いてはじめてその人はものを見ることができるんです」

バルナバスおよびその一家の問題が語られることによって、Kの問題はより明確化する。つまりそれまで混沌としており訳が分からなかった城の問題が、あるていど整理されるのである。それは人が鏡によってはじめて自分の顔が見られることと似ている。

ところでKは自己の問題にコミットしていけない。なぜならそれは心の問題であり、心は物ではない上に自己の内部にあるため、直接触れることができないからだ。しかしKはバルナバスに対してならコミットしていける。バルナバスは他者であり、れっきとした人間だからだ。つまり物語の作者は鏡像の問題を解決することを通じて、主人公の問題に間接的に働きかけることができるのである。実際には『城』ではバルナバスの問題はいっさい前進しないが、カフカがそのような展開を書くことができる状況に持っていったことは注目に値する。たとえば『かえるくん、東京を救う』などでは、主人公は自己の鏡像を通じて、問題を解決まではいかないものの前進をさせている。

上記は鏡像に関する話だが、では影はどうだろうか。影は、鏡像のうち正体不明度が高いものである。影の正体に迫るとそれは鏡像になる、と言い換えてもいいだろう。

『オルラ』は正体不明度が極まっている例だ。それはもはや謎すぎて、影という形象すら取ることができていない。これがもう少し明確化するとアンデルセンの『影』のような話になる。さらに明確な例はシャミッソーやホフマンの短編であろう。彼らはいくつか影の話の特徴を浮かび上がらせているし、アンデルセンの短編と違って主人公が影や悪魔に呑み込まれてはいないので、問題の解決へと足を進めていると言える。さらにこれを前進させると影はもう少し具体的な形象をとってきて、『城』や『かえるくん、東京を救う』になると思われる。ル・グウィンの『影との戦い』では、最後の戦いでゲドが影に迫っていくと影はいろいろな人に姿を変えるのだが、これは上記の特性をよく表していると言える。影は正体に迫っていくと姿を変えて明確になっていくのだ。どこからが影でどこからが鏡像であるかははっきりとは定義しにくいが、おおむね以上のようなことが言えると思っていいだろう。

多くの物語において影や鏡像は主人公を苦しめる。それは正体不明であり、下手をすれば主人公を殺しかねない危険なものだ。事実『フランケンシュタイン』では主人公は自己の影にさんざん苦しめられ、最後には死に至っている。

しかし主人公が謙虚な姿勢をとり、自己の問題を自覚して取り組もうとすれば、それは解決できる。むしろ第三者から見れば、影と鏡像は問題の解決に手を貸す助役のようにすら思われるのだ。特にそれは物語の作者にとって有益な道具だと言えるだろう。

あるいは影や鏡像は自己の心のメタファーであると言い換えてもいいかもしれない。したがって影や鏡像を積極的にとりあげるタイプの物語においては、メタファーは目的ではなく、問題解決の手段となる。ある種の物語ではメタファーは影や鏡像だけでなく、ありとあらゆるものに降り注ぐ。例えば『1Q84』がそうだろう。ここでは卵型の暗喩が縦横無尽に走っている。プルーストはメタファーを小説の目的に据えて、これこそが究極の美であると考えた。しかし村上春樹はメタファーをあくまでも道具と捉えている。それは心というやっかいな問題に立ち向かうときに連れ添ってくれる、我々の友であり、味方なのだ。