『1Q84』を読む4: 卵型の比喩

リトル・ピープルに対抗するもの。それこそが個人の願いである。自分固有の願いを持ち、育て、また自覚すること。それを守り切り、かなえること。これが『1Q84』の打ち出した中心的なテーマだ。

村上はそれを強調するために卵型の比喩というテクニックを用いた。それは時に直喩としてあらわれ、時に隠喩としてあらわれる。

その特徴は、空間と時間と善悪の判断がセットになっている点にある。その比喩において、主人公となる者は狭い箱の中に置かれる。彼は時間の経過とともに力を得たり、あるいは奪われたりする。狭い箱が主人公に養分を与え、力を授けていく場合は善の型の比喩であり、逆となる場合は悪の型の比喩になる。これらは直接的に比喩として表現されることもあれば、暗示的に表現されることもある。

次に一覧を掲げる。

  • Book1 前編
    • p11 タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。(※ 狭い箱であるタクシーの中に外から音楽が飛び込んでくる)
    • p17 開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。
    • P21 青豆は自分が日暮れまで、このタクシーの中に閉じこめられるところを想像した。
    • p28 赤いスズキ・アルトに乗った小さな女の子が、助手席の窓から顔を突き出し、ぽかんと口を開けて青豆を眺めていた。それから振り向いて母親に「ねえねえ、あの女の人、何しているの? どこにいくの?」と尋ねた。「私も外に出て歩きたい。ねえ、お母さん、私も外に出たい。ねえ、お母さん」と大きな声で執拗に要求した。母親はただ黙って首を振った。
    • p60 「君が本来書くべきものは、君の中にしっかりあるはずなんだ。ところがそいつが、深い穴に逃げ込んだ臆病な小動物みたいに、なかなか外に出てこない。」
    • p85 ※ 青豆がホテルの部屋に忍び込んで人を殺す。
    • p113 窓ガラスに顔をつけて空き家の中をのぞくみたいに。
    • p117 おそらく何かが小さな隙間から入ってきて、彼の中にある空白を満たそうとしているのだ。そんな気がした。それはふかえりが作り出した空白ではない。天吾の中にもともとあったものだ。彼女がそこに特殊な光をあてて、あらためて照らし出したのだ。
    • p163 部屋にたとえれば、壁があって屋根がついていて、雨風さえしのげればそれで十分という考え方だ。
    • p189 ※ 老婦人の温室。蝶の世話をしている。
    • p261 便秘は青豆がこの世界でもっとも嫌悪するものごとのひとつだった。
    • p269 その部屋がそこを訪れる誰をも歓待するまいと堅く心に決めてから、ずいぶん長い歳月が経過したように見えた。
    • p287「テンソク」とふかえりは尋ねた。「昔の中国で、幼い女の子の足を小さな靴に無理矢理はめて、大きくならないようにした」と天吾は説明した。
    • p311 肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆の揺らぎなき信念だった。
  • Book1 後編
    • p75 たとえひとつの檻からうまく抜け出すことができたとしても、そこもまた別の、もっと大きな檻の中でしかないということなのだろうか?
    • p105 瓶に問題があるのか、それとも蓋に問題があるのか?
    • p107 集中して脇目もふらず『空気さなぎ』の改稿をしたことによって、その源泉をこれまで塞いでいた岩が取り除かれたのかもしれない。どうしてそんなことになったのか、その理屈は天吾にもよくわからないのだが、しかしそういう「重い蓋がやっとはずれた」という手応えが確かにあった。身が軽くなり、狭いところから出て自由に手脚を伸ばせるようになった気がする。
    • p169 引き出しの中にしっかりと収められているはずです。
    • 「最後まで書き上げて、しっかり書き直してからじゃないと、原稿を人に見せないことにしているんだ。それがジンクスになっている」
    • p202 別のどこかにある鍵のかかった小さな暗い部屋に、その心は仕舞い込まれてしまったようだった。
    • p291 ひとつの部屋から別の部屋に移っていくような
  • Book2 前編
    • p137 ※ ゴムの木と金魚の対比 
    • p169 心の部屋のいくつかをしっかり閉め切っておかなくてはならなかった。
    • 天吾は沸騰した湯をポットに注いだ。蓋をしてしかるべき時間が経過するのを待った。
    • ※ 青豆がタマルからさずけられた銃身は銃弾を収めている。銃身=箱、銃弾=箱に収められたもの、という構図が成り立っている。
  • Book2 後編
    • p55 それは小さな固い箱に詰められ、
    • p69 そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね
    • p88 このしみひとつない真新しい部屋にいると、自分が記憶と個性を剥奪された匿名の人間になったような気がした。
    • p135 ネズミを取り出す
    • p152 誰が来てもドアを開けるんじゃないよ
    • p217 ※ ゴムの木と金魚の対比
    • p219 それは幼いときの自分自身の姿を彼女に思い起こさせた。
  • Book3 後編
    • ※ 冒頭で小松が誘拐され、幽閉される場面が語られる。
    • ※ 牛河のアパートの部屋へのタマルの侵入。殺害。
    • p295 それは彼女の心から一歩たりとも外に出してはならない。厚い壁でしっかりと心を囲まなくてはならない。
    • p382 サヤの中に収まる豆のように。

この表現のもっとも分かりやすい典型は、天吾や青豆の生活である。それらは狭いアパートの部屋の中で営まれる。彼らの特徴は自律的であることだ。食事をつくり、食べるものをコントロールし、洗濯と掃除をし、適切な運動をしている。あるいは読書をし、音楽を聴く。そうした生活が卵でいうところの養分に相当する。彼らは願いや望みそのものに一直線に向かわない。むしろ自己の肉体と精神の輪郭をつくることに力を注ぐ。中身は、今は不確定であったり、混沌としていたりしても、来るべき未来にはそれは姿をあらわすであろう。そうした姿勢こそが善なのだ。中身を育てるためにはまず箱を造る、ということである。

肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆の揺らぎなき信念だった。

天吾や青豆の生活の逆に当たるのが牛河の生活だ。特に天吾の監視のために続けるアパートでの生活だ。それはじつに貧しいものとして描かれている。そのために彼はタマルの侵入を許し、殺害されてしまうのだと解釈すると理解が容易になる。

この表現の特徴は、善と悪の両方のパターンが描かれることにある。たとえば渋滞につかまってタクシーの中に閉じ込められたまま何時間も過ごすのは悪である。纏足ももちろん悪だ。また青豆が金魚を買うかゴムの木を買うかという選択を迫られて、出口のない金魚鉢を悪とみなし、半分鉢植えから顔を出しているゴムの木を買うのは善のパターンである。リーダー殺害のあと、青豆は坊主頭に対して「そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね」と皮肉を言っているが、これは「さきがけ」の人々に対する攻撃であり、悪のパターンへの言及である。なお天吾が書きかけの原稿を人に見せず、書き終えてからでないと人に見せないのは善のパターンだ。しっかりと自分という殻の中に望みを閉じ込めて、秘密にし、守らないといけないという意思がそこには認められる。小さな例としては、「天吾は沸騰した湯をポットに注いだ。蓋をしてしかるべき時間が経過するのを待った。」などという短い文章にも、この型の表現が認められるであろう。

そしてそれらの表現において善悪の判断が明確に述べられることはほとんどない。作者からのヒントとして、金魚を買うかゴムの木を買うかの選択については青豆の心情が詳しく述べられるが、明確である例はこれぐらいであろう。

こうした沈黙には暗示の効果を高めるという利点がある。また省略が起こるので、作者は事実だけを述べていくことができるため、小説のリズムが良くなるという効果もある。

この卵型の比喩の最大の長所は、伸縮自在であるということだ。空間と時間の両方が要素として含まれているので、銃の発射や紅茶を淹れるといった行為から、温室で蝶を育てることや室内での生活についてまで、さまざまなことに言及ができる。しかも善悪の判断という積極的なおこないがそこに関わるため、作者は善の事例も悪の事例も持ち出すことができる。彼は首を自由に左右に振ることができ、広い視野を確保できる。それはじつに優れた道具なのだ。

なお善のパターンにおいては、あるべき帰結は、箱は内側から崩される。青豆はセーフハウスで過ごした後、老婦人の保護を拒否し、みずから安全な部屋を出て行く。これはまさに卵の孵化と同じであろう。

ちなみに個人の望みとは、具体的には天吾の場合は小説を書くことと青豆に逢うこと、青豆の場合は天吾と添い遂げることである。

望みは育てるだけでなく、自覚することも大切だ。作中で天吾は「そう、話のポイントは月にあるのではない。彼自身にあるのだ。」と考える。これは、見えないものが力を及ぼして見えるものとして立ち現れるという構造への言及である。ここでの見えないものは自己の願いだ。見えるものとしての現れは、自分自身の行動や意欲などである。月が二つに見えることは、自己の願いの自覚の始まりと関係がある。それは1Q84世界に入っていくためのスイッチなのだ。牛河の場合は自覚が中途半端だった。つまり本作の倫理に反した。だから犠牲になったのだと考えると得心がいく。

最後に一言述べると、作品の冒頭で狭い箱であるタクシーから抜け出した青豆は、最後にふたたびタクシーへと戻ってくる。しかしそこはみずからが望んだ場所だ。それは天吾とともに二人で獲得した新たな箱なのである。