『城』を読む (前半)

フランツ・カフカの『城』を原田義人の訳で二度読んだ。それについて書く。

前提

本稿は、カフカの『変身』と村上春樹の『かえるくん、東京を救う』、またカフカの『城』の原田義人訳、そして次の記事を読んだ者を対象にしている。

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読解する範囲

『城』は、13章のKとフリーダの痴話喧嘩が一段落するところで前半が終わる。直後にハンス・ブルンスウィックという男の子が訪ねてくるが、そこからが後半戦になる。

本稿では前半部分を読み解いていく。

『城』の基調

この小説は、訳が分からない。『城』はどこからどう読んでも得体の知れない作品である。読者は終始混乱させられたり、うんざりさせられたりする。その理由は文章自体にある。

「許可がなければいけません」という答えだった。若い男が腕をのばし、亭主と客たちに次のようにたずねているのには、Kに対するひどい嘲笑が含まれていた。
「それとも、許可はいらないとでもいうのかな?」
「それなら、私も許可をもらってこなければならないのでしょうね」と、Kはあくびをしながらいって、起き上がろうとするかのように、かけぶとんを押しやった。
「それでいったいだれの許可をもらおうというんですか?」と、若い男がきく。
「伯爵様のですよ」と、Kはいった。「ほかにはもらいようがないでしょう」
「こんな真夜中に伯爵の許可をもらってくるんですって?」と、若い男は叫び、一歩あとしざりした。

カフカは同じことを愚直に反復させて書いているのである。こういうことをされると読んでる側はめまいがしてくる。同じことを、少しずつ本質をずらしながら表現方法を変えて反復させると、華麗な文章となるのだが、カフカはそのことを知悉した上であえて逆を行っているのである。

次は城に行こうとするKとそりの馭者の問答である。

「だれを待っているのかね?」
「乗せてくれるそりをまっているんだ」と、Kはいった。
「ここにはそりはきませんよ」と、男はいった。「ここは乗りものは通りませんよ」
「だって、これは城へ通じる道じゃないか」と、Kは異論を挟んだ。
「なに、それでも」と、男はある頑固さをもっていった。「ここには乗りものは通りませんよ」
 それから二人は沈黙した。だが、男は何か考えているらしかった。というのは、煙の流れ出てくる窓をまだ開け放しのままにしているのだった。
「ひどい道だ」と、Kは男に助け舟を出すようにいった。しかし、男はただこういうだけだった。
「むろんそうでさあ」
 だが、しばらくして男はいった。
「お望みならば、わしがあんたをわしのそりでつれていってあげるがね」
「どうかそうしてくれないか」と、Kは悦んでいった。「いくらくれろというんだね」
「一文もいらないよ」と、男がいう。
 Kはひどく不思議に思った。
「なにしろあんたは測量技師だからな」と、男は説明するようにいった。「で、お城の人というわけさ。ところで、どこへいきなさるのかね?」
「城へだよ」と、Kはすぐに答えた。
「それじゃあ、いかないよ」と、男はすぐさまいった。
「でも、私は城の者だよ」と、Kは男自身の言葉をくり返していった。
「そうかもしれないが」と、男は拒絶するようにいった。
「それじゃあ、宿屋へつれていってくれないか」と、Kはいった。
「いいとも」と、男がいった。「すぐそりをもってくるよ」

主人公Kが何かをしようとすると、必ずと言っていいほどこのような押し問答が繰り広げられる。なかなか答えが出ない。しかも結論としてはKの望みは果たされないというところに着地するので、物語はさっぱり前進を見せないことになる。SNSを検索すると途中で『城』をリタイアする人が散見されるが、これはまったく無理からぬことである。この作品を最後まで読み切れる人は少ないのだ。

カフカはこれらすべてを喜劇として描いている。その雰囲気を上手くつかみ、楽しんで読み進めることが読者には求められる。

『城』の掲げる課題

『城』は『変身』をスケールアップさせた作品だ。『変身』における主人公の葛藤は、具体的であるし、多くの人にとって身近なものなので理解しやすい。すなわち意識上は仕事に行きたいと思っているが、無意識下では出勤を拒んでいるのだ。意識上では家族を守りたい、養いたいと思っているが、無意識下では家族を放り出したいと思っている、と言い換えてもよいだろう。

それに対して『城』の問題設定は、この引き裂かれの図式をもっと普遍化・深刻化したものであると捉えられる。すなわち主人公は、意識上はある事をしたいと願っているが、無意識下ではそれをしたくないと考えている。この場合の「ある事」は何でもよい。それはどんな事でも当てはまる底なしの箱だと言える。つまりKはフリーダとの結婚生活を上手くやろうとし、クラムに会おうとし、城に行こうとし、助手に言うことを聞かせようとし、測量士として仕事をしようとするが、すべてが上手くいかない。何もかもが「意識上ではやりたいと願う」ことであるのに、その実「無意識下においては拒否している」ことだからだ。

このような相反する力が肉体に課された結果、Kはその場で回転をする。左半身が前方へ引っ張られ、右半身が後方へ引っ張られるのだ。彼は独楽のごとく回転運動をする。それは傍目から見る分にはたいそう楽しい運動である。それが作品に喜劇性を帯びさせていると言っていい。しかし本人はたまったものではない。彼は前にも後ろにも進めない。城にたどり着けないのはもちろんのこと、逃げ出すこともかなわないままKは疲弊していく。だから『城』は喜劇でありながら、同時に悲劇なのだ。矛盾した二つの性格のドラマをいっぺんに、どこまでも正確にやってのけたことで、『城』は傑作としての名声を確立させた。

Kは目標である城へ到達しようとするが、努力すればするほど、むしろ障害が現れる。それはまるで亀に追いつくことのできないアキレスのようだ。前に進もうとしても、必ず中間点が姿をあらわして妨害してくるのである。

全力をあげてクラムを見ようと努めていたKではあるが、たとえばクラムの眼の前で暮らすことが許されているモームスのような男の地位でも、そう高くは評価していないし、いわんや感嘆や嫉妬といった気持からは遠かった。というのは、クラムの身近かにいるということが彼にとって骨折りがいのあることなのではなくて、ほかならぬKという自分だけがほかならぬこの自分の願望をもってクラムに近づくということこそ、骨折りがいのあることなのだ。しかもそれは、クラムのところに落ちつくためではなく、彼のところを通りすぎてさらに城へいくためなのだ。

上記の箇所は次のように翻訳できる。すなわちKは城へ行こうとするが、そこにクラムが関所として立ちはだかる。そこでKはクラムへ到達しようと願う。だがモームスが間にあらわれてKに事情聴取を取ろうとする。それに答えようとすると今度は宿屋のおかみ(ガルディーナ)が妨害してくる。結果としてKはやはりその場にとどまり続けることになるのだ。

意識と無意識の願いの葛藤。この図式の突破口は、望みの由来をつきとめることにある。意識上で自分がやりたいと思っていることは、実は他人が自分にやってほしいと願っていることなのである。彼はそれを引き受けている内に、いつしかべったりと他人の望みが自分の体に貼りついて、自身と一体化してしまい、分別ということができなくなってしまった。一方で、無意識下で自分がやりたいと思っていることこそが、自己の本当の願いなのである。

しかしこのような客観的な分析は力を持たない。それがこの種の問題の難しさである。仮に僕が作中世界に入っていってKに以上のすべてを説明しても、到底彼は納得されないはずである。何一つ事態は改善されないであろう。彼はあまりにも深く自分の心を封印してしまっているのだ。湖の奥底に沈み切ったそれを、Kはどうしても知覚できないでいる。したがって、彼は肝心なところで完全に無知であると断言できる。作中で、多くの警告がKになされる。ガルディーナは言う。「どこへいこうと、あなたはここではいちばん無知な人間なのだということを、はっきり意識していて下さいよ」。あるいはこうも言う。「あなたはこの土地ではすべてをまちがって見ているのよ」。まったく、彼女は正しいのだ。

『城』の問題はじつに根深い。『変身』では主人公の素性がある程度描かれるのに対して、『城』においては主人公の素性が描かれないのも、この落し穴の深さを窺わせるものがある。グレゴール・ザムザについては彼の家族の性格が書かれたり、仕事や、部屋の家具や、婦人の絵を壁に飾っていることなどが言及されるのに対して、Kはまったくと言っていいほど素性が明かされないのである。我々はKが何を好きなのか嫌いなのかを知らない。『城』のこの特徴は主人公の無自覚性という性格を浮かび上がらせている。主人公は自分自身からかたくなに目を背けているのだ。彼はまるで鏡を見たことのない人物のようである。

以上の議論を反省すると、この小説の「訳の分からなさ」も理解されてくる。それはKの自覚のなさを表現しているのである。読者にも彼の混乱が共有されるように書かれているのだ。

ただし自ら設定した問題を、カフカには解く気があったようだ。作中のありとあらゆる所にヒントや助力が散らばっているからである。前述したガルディーナの警告もそれに当たる。

二人の助手について、自分は見分けをせずに同じ名前で呼ぶとKが宣言するところもそうである。彼らはおそらくKの心の深淵からやって来た使者たちだ。二人の見分けがつかないことは、意識上の願いと無意識下の願いの区別がつかないということのメタファーなのである。あるいは他人の願いと自己の願いの区別がつかない、と言い換えてもよい。Kに求められていることは、彼らの区別をつけることである。それはとても難しい問題だが、Kが正しい道に立ち返るためには果たされなければならない目標なのだ。

上記の理解があると、ヒロインのフリーダが助手をかばうのもおのずと了解されてくる。すなわち、Kは助手を追い出したいので、フリーダとは対立している図式になっているように見える。しかしそれは意識という心の表面におけるレベルのことに過ぎない。フリーダはKを大切に思っているので、彼らを放逐したくないのだ。助手たちの区別をつけることは、Kが他人の願いと自己の願いの区別をつけるということをする上で、通らなければならない関門なのである。助手たちは言い換えればヒントであり、無意識から送られてきた支援なのだ。つまりフリーダは無意識という層においては、れっきとしたKの味方なのである。彼はこのことに自力で気づかなければならない。

眠りということについて数多く言及されるのも本作の特徴である。あらゆる登場人物が頻繁に眠りに入る。これは読者に投げかけられたヒントだ。無意識がトラブルに陥っているので、意識が覚醒を保っていられないのである。壊れた機械がシステムダウンするように彼らは眠る。彼らはまず基礎となる土台を直さなければならないが、できない。みずからの致命的な傷に無自覚だからである。あるいはこうも表現できる。カフカはコップに水を注ぐが、いつまでも水面は上昇しない。コップの底に致命的な穴が空いてるからだ。水面は意識という表面の層まで持ち上がってこず、登場人物は覚醒できないのだ。

冒頭で、Kが眠ろうとしているところを起こされるのも示唆的である。つまり彼は片方の足を睡眠に、もう一方の足を覚醒に置いている。もちろんこれは無意識下の願いが眠っており、意識上の願いの方だけが起きていることを比喩的に表しているのである。

クライマックス

『城』のもっとも面白い場面は、13章におけるKとフリーダの痴話喧嘩である。引き裂かれたKの回転運動は、フリーダをも巻き込んで頂点を極める。この場面を解説してから本稿を閉じる。

さて、かつてセルバンテスという作家が、『愚かな物好きの話』という作品において、小説の最も基本的なテクニックを構築して誰にでも分かる形で明らかにしてみせた。

それは次のようなものだ。ある一つのことを執拗に何度でも繰り返す。文章は長く、長くなっていく。その中で最初に提示された一つの物事は、比喩やたとえ話などのさまざまな表現方法を用いられて変化しながら、しかし本質は元のままに、何度でも繰り返されていく。そうして一つの物事が変化を遂げながら執拗に繰り返されていくうちに読者の心理は変化していく。その反対の物事への疑念・可能性が無意識のうちに芽生えていくのだ。そうやって十分に疑念や可能性を植え付けた後に一気に物語を反対の方向へ持っていくと、読者は興奮し、感動する。急激な展開にももちろん納得し、面白さを覚える。

カフカはこの技法をよく知悉していた。そこで彼はセルバンテスの方法論を反省し、それを少し変形させて『城』という小説で実行することに決めた。彼はくりかえし登場させる物事に変化を加えるのをやめて、ただ単語をそのまま反復させるという愚直なやり方を実行したのである。「クラム」という人名がそれだ。カフカはクラムという作中の人物に主人公よりも強大な権力を与え、かつ主人公がそれに接近しようとしても決して邂逅できない人物として描いた。不条理かつ、主人公を圧迫する雰囲気を付与したのである。そしてその人名を作中でこれでもかというほど繰り返し登場させた。言い換えは行わずに「クラム」という名前そのままでだ。するとその単純な反復がちょうど次の引用の箇所で爆発的な効果を生んだ。

「わたし、ここのこんな生活に我慢できないわ。もしあなたがわたしをつかまえておこうと思うなら、わたしたちはどこかへ移住しなければならないわ、南フランスか、スペインへでも」
「移住はできないよ」と、Kはいった。「私がここにきたのは、ここにとどまるためなんだ。私はここにとどまるよ」そして、矛盾をさらけ出しながら(彼はその矛盾を少しも説明しようとはしなかった)、ひとりごとのようにつけ加えていった。「ここにとどまりたいという要求のほかに、何が私をこのさびしい土地に誘うことができただろう?」つぎにまた、こういった。「でも、君だってここにとどまっていたいんだろうね、ここは君の故郷の土地なんだもの。ただクラムが君にいなくなったものだから、それが君を絶望的な考えに引き入れるんだよ」
「クラムがわたしにいなくなった、ですって?」と、フリーダはいった。「クラムなんかここにはあり余るほどいるのよ。クラムがいすぎるくらいよ。あの人から逃がれるために、わたしはここを去りたいのよ。クラムではなくて、あなたがわたしにとってはいないのよ。あなたのためにわたしはここを去りたいの。ここではみんながわたしを無理に引っ張って、そのためあなたをあきるほど愛することができないからなのよ。わたしが静かにあなたのところで暮らせるように、きれいな仮面がわたしからはぎ取られ、わたしの身体がみじめになればいい、と思うくらいなのよ」

文字のゲシュタルト崩壊という現象がある。同じ文字を見続けていると段々と文字を構成する図形が崩壊して見えてきて、元の文字が何だったのか分からなくなってしまう事態のことだ。『城』においてクラムという人名に起こっているのは、いわば意味のゲシュタルト崩壊というべきものだ。クラムという言葉があまりにも繰り返される内にそれは元々指していた特定の人物という意味合いを外れていき、付与されていた不穏なイメージが暴走して、主人公とヒロイン二人に敵対するあらゆる物のように思われてくるのである。

引用したフリーダの台詞にはある種の快感が確かにある。それも凄まじい爽快感だ。ジェットコースターに乗って猛スピードで下っていくと、ある所でレールが外されており、空中に投げ出されて飛翔していくような感覚がそこにはあるのだ。それは間違いなく快感ではあるのだが、しかし死に向かっていく自棄的な面が存在していることも疑いえない。

次の記事に続く。

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