『外套』を読む

ゴーゴリの短編小説『外套』を岩波文庫の平井肇訳で読んだので、それについて書く。

物語の大枠

この小説は基本的にはリアリズムで書かれている。人物の外見や事物の描写は細かく的確であり、生活や仕事のことまで踏み込まれて書かれている。そのような文体で作品の大部分が進行するのだが、ページ残りわずかという終盤になって、とつぜん非現実的な存在である幽霊が出てくる。このような劇的な転換に読者は驚き、楽しみを覚える。『外套』には、大枠としてはこのような構造があるといえる。

しかも偶々そんなことになってこの貧弱な物語が、思いもかけぬ幻想的な結末を告げることになったのである。

アカーキイの性格

主人公・アカーキイの性格は次の二点にまとめられる。

  • ひたすら同じ場所にとどまり続ける。
  • みじめで弱い。

彼は名前からしてアカーキイ・アカーキエヴィッチと、同じ音の繰り返しになっている。くわえて父親の名前をそのまま引き継いでいる点も、同じことをずっと繰り返すという性質を補強している。また、その仕事は写書である。つまり同じ物を再生産することが彼の役割なのだ。

局長や、もろもろの課長連が幾人となく更迭しても、彼は相も変らず同じ席で、同じ地位で、同じ役柄の、十年一日の如き文書係を勤めていたので、しまいには皆んなが、てっきりこの男はちゃんと制服を身につけ、禿げ頭を振りかざして、すっかり用意をしてこの世へ生まれて来たものに違いないと思い込んでしまったほどである。

また、アカーキイはみすぼらしい人物だ。容姿は醜く、脆弱である。高齢なのに官等も低い。若い官吏どもに何度もからかわれている。

それにまた、彼の制服には、いつもきまって、何なりかなり、乾草の切れっぱしとか糸くずといったものがこびり附いていた。おまけに彼は街を歩くのに、ちょうど窓先からいろんな芥屑を投げすてる時を見計らって、その下を通るという妙な癖があった。そのために、彼の帽子にはいつも、パン屑だの、甜瓜の皮だのといった、いろんなくだらないものが引っかかっていた。

これら二つの性格は、饒舌で楽しい文体によって、多様に語られる。これはセルバンテスのメソッドに相当する。すなわち作者が一つの物事を、本質をそのままにとどめながらも様々な光の当て方をして変化をつけながら語ることによって、物語はその反対の方向への展開を準備するようになるのである。「同じ箇所にとどまり続ける」という性質が「変化」を呼び込み、「みじめで弱い」という性質が「豪奢で立派な外見」を呼び込んでしまう。

これら二つの物語的直線が交わるところが、新しい外套である。アカーキイは古い外套を修繕して同じ物を使い続けることにこだわる。これが第一の性格に当たる。また古い外套は擦り切れており、みすぼらしいので周囲の人物たちからは半纏と呼ばれている。これが第二の性格に当たる。これらの特徴が反転した結果が新しい外套だ。同じ物が否定され、別の物があらわれる。しかもそれは優れた見た目をしているのだ。

二人は非常に上等な羅紗を買った。それもその筈で、彼等はもう半年も前からそれについては考えに考えて、店へ値段をひやかしに行かなかった月は殆どなかった位だからである。その代り、当のペトローヴィッチでさえ、これ以上の羅紗地はあるまいと言った。裏地にはキャラコを選んだが、これまた地質のよい丈夫なもので、ペトローヴィッチの言葉によれば、絹布よりも上等で、外見もずっと立派な、艶もいい品であった。貂皮はなるほど高価かったので買わなかったけれど、その代りに、店じゅうで一番上等の猫の毛皮を――遠眼にはてっきり貂皮と見紛いそうな猫の毛皮を買った。

悲劇を分析する

アカーキイは外套を何者かによって強奪される。それに加えて高い官等という強大な力に振り回されて、外套を取り戻すこともかなわず、死んでしまう。その無念が幽霊という形になってあらわれて、復讐を果たしたところで物語は幕を閉じる。この復讐のシーンに『外套』の面白さはある。内気で脆弱なアカーキイが変貌を遂げて、めっぽう強くなるのである。

『ああ、とうとう今度は貴様だな! いよいよ貴様の、この、襟首をおさえたぞ! おれには貴様の外套が要るんだ! 貴様はおれの外套の世話をするどころか、却って叱り飛ばしゃあがって。――さあ、今度こそ、自分のをこっちへよこせ!』

それはいい。それよりも僕が疑問であるのは、なぜ物語はアカーキイの死という悲劇的展開を要請するのか、ということである。ゴーゴリはどのような土台を用意することで、その上に悲劇という物語を構築してみせたのか。その点に興味がある。

直接的には、回答は容易である。アカーキイは新しい外套に浮かれていた。その浮かれた心境という心の空隙が、いわば真空のように作用して、不幸を吸い寄せたのである。

アカーキイ・アカーキエヴィッチは、ぞくぞくするような気分で浮き立ちながら歩いていた。彼は束の間も自分の肩に新しい外套のかかっていることが忘れられず、何度も何度も、こみあげる内心の満足からにやりにやりと笑いを漏らしさえした。

ではなぜアカーキイは大きな隙を見せるほどに浮かれなければならないのであろうか。

ここで我々は願いというテーマについて思いを向けてみる。願いは物語世界の伝統的なテーマだ。『失われた時を求めて』の主人公は偉大な作家になることを夢見て社交界と芸術の間を彷徨する。『大いなる遺産』の主人公はヒロイン・エステラとの結婚を期待する。『ドラゴンボール』の主人公たちはどのような願いも叶える宝を求めて旅をする。

このテーマで避けては通れない文学的な地点に、カフカの『変身』と『城』がある。以前解説したが、『変身』と『城』の要諦は、意識上の願いと無意識下の願いの葛藤にある。それぞれが反対方向を向いているので、主人公は引き裂かれた状況に置かれてしまっている。この場合、無論、知覚できない無意識下の願いこそが本物の望みなのである。カフカはそのような特異な引き裂かれの状況を、人類の歴史の中でもっとも巧みな筆致で描き出した作家だ。

村上春樹はカフカの提出した問いに答えることに成功した作家である。『かえるくん、東京を救う』『1Q84』という小説がそれだ。前者では、村上春樹は無意識における拒否という心の動きに着目してそれを描いた。後者では、無意識下に沈んでしまった望みを刺激し、掘り返し、自覚するというプロセスを丁寧に描き出した。

このような文学的考察を経て、今一度『外套』を振り返ると分かるのは、アカーキイの致命的な弱点は、自らの望みの無自覚性にあるということだ。彼は言ってみれば『変身』のグレゴール・ザムザなのである。『外套』と『変身』は親戚関係にある小説と言っていい。両者の差異は、視点にある。カフカは、意識と無意識が反対を向いているという特異な引き裂かれに置かれた人物の、心理的状況に着目し、彼から見て世界がどのように映っているかを書いた。一方、『外套』は同じことを俯瞰映像で書いた作品であると捉えられる。共通部分としては、非現実な存在が一点だけ登場してくるという所(それが主人公の変身後の姿である所)や、主人公が仕事に没頭している所や、権力に苦しめられている所、金銭に困っている所などが挙げられる。

より正確に言及しよう。『外套』の主人公は引き裂かれの状況には置かれていない。アカーキイは単純に、望みの深い無自覚という罠に陥っているだけだ。そのため彼は新しい外套というちょっとした変化に揺さぶられただけで、致命的に浮かれるという心理に陥ってしまうのである。それが最後には死を招く。

『変身』のグレゴール・ザムザは、アカーキイを少しだけ変形させた人物であると捉えられる。つまりカフカは問いを一歩推し進めて、より過酷な状況を作り出したのだ。無意識に眠っている心の部分に着目して、そこに力を加えて捻じ曲げて、意識と逆方向を向かせたのである。この問題設定は秀逸だった。しかもカフカはそれを描き出すに足る文学的手腕を持っていた。それが死後、彼に大きな名声をもたらしたのである。