『祖母の記録』を読む

円城塔の短編集『バナナ剥きには最適の日々』を読んだ。そこで本稿では短編『祖母の記録』について論じてみる。

ブラックボックスの構造について

この短編集には「自我が箱の中に閉じ込められている」という構造が随所に出てくる。表題作においても探査球の中に主人公は閉じ込められているし、『祖母の記録』にも「僕は自分の中に居候した他人のように毎夜スクリーンを睨み続けた」という表現が出てくる。『Jail Over』においても主人公は牢に閉じ込められており、次のような文章が記されている。

 わたしはこの頭蓋に閉じ込められているのであり、頭蓋は牢に閉じ込められて、牢は城に閉じ込められて、城は国土に閉じ込められて、国土は星に閉じ込められて、星は宇宙に閉じ込められて、宇宙は始原にとうの昔に閉じ込められてしまったきりで、逃げ出す場所などこの世のどこにもありはしない。

このような表現を踏まえてバナナ星人の挿話、すなわち死ぬまで三枚剥きか四枚剥きか分からないという話を考えてみると、自分は皮とその中身によって構成されているのだが、生きている間もその中身である自分自身を把握しきれないという構造が浮かび上がってくる。自分を把握しようとすると、自分は把握する自分と把握される自分――分かりやすくは精神と肉体――という二者に分かれてしまうのだが、するとその「把握する自分」は一体誰が把握したらいいのかという問題が出てきてしまうのである。問題は解決できず、いつまでたっても「中身」には謎が残り続ける。

祖母の記録

この短編の中核は、人事不省となった祖父と僕との交信である。僕はまだ祖父が生きているはずだという希望を持っているのだが、そのような希望が本作を根底から支えており、物語を動かす力のみなもとになっている。そこには祖父の意識が頭蓋骨に閉じ込められてしまっており、その意識と外部との交信が困難であるという構造が認められる。この構造は前述した「箱の中身が分からない」という問題意識と通底していると言っていいだろう。

ただしそこには差異がある。それは自分自身がその構造に投げ込まれているのではなく、他者が投げ込まれているという点だ。主人公は自分自身に対して働きかけるのではなく――それをやると堂々巡りになってしまい物語は硬直してしまう――、他者に働きかける。

すなわち僕は祖父との交信が不可能であるという問題に立ち向かうために、祖父を外部から「編集」する。交信できない意識のことは無視して、その器である肉体だけを動かすのである。彼は死に近接した祖父を齣撮りし、編集作業によって映像を作り上げ、その中で祖父を活気に満ちた形で動かす。これはどこか死者を蘇らせる行為に似ていると言えるが、主人公はあくまでも祖父に生きていてほしいのだろう。

このような働きかけによって物語の広がりやダイナミズムというものが生まれており、それが小説としての面白さを生んでいると考えると、得心が行くのである。その結果として異性の影も他の作品と比べると濃くなっているようだ。といってもそれは少女というよりはその祖母という形をとっており、異性との接近は映像中の祖父と祖母の接近という形で終わってしまっている。どうやら物語の力はまだ不足しているようであり、僕は現実の異性と結びつけないのである。