ニヒリズムと嘘

三島由紀夫はニヒリズムを極めた作家だ。その考えの要諦は次である。

  • この世のあらゆる事物には何の意味もない。
  • すなわち人生は無意味である。
  • したがって人は皆ただちに自殺しなければならない。

村上春樹はこのニヒリズムの克服を目指した作家である。その考えの要諦は次である。

  • この世のあらゆる事物には何の意味もない。
  • すなわち人生は無意味である。
  • それにも関わらず人は自殺の誘惑に耐えて、善をなすべきである。

村上は、ニヒリズムの根拠は自分に嘘をつくことにあると考える。彼によればどんな人物にも生きる意志や善をなす意志がある。ニヒリズムの実行者は、そのような意志が自分に備わっていることを認めず、誤魔化している。すなわち自分に嘘をついている。それが村上の意見なのだ。

「僕はどうすればいいんですか、具体的に?」
「まず第一に相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。噓をついたり、物事をとり繕ったり、都合のわるいことを胡麻化したりしないこと。それだけでいいのよ」
(村上春樹著 『ノルウェイの森』)

注意したいのは、三島は自分だけの人生を虚しいと言ったのではないということだ。彼は、どんな人間も、すなわち今まで生きた人間も、これから産まれてくる人間も、あらゆる者の人生は虚しいと喝破したのである。それを説得力ある筆致で描いた。それは正しかった。しかし問題は「だから自殺する」という結論に一直線に進んでしまう点にある。村上は、この世が無意味であることと、人に善を成す意志がそなわることは両立しうると考えた。その二つは関係のないことなのだ。両者は独立している。そう喝破した。それが村上春樹の美点である。村上はニヒリズムの論理に欺瞞の匂いをかぎつける。三島は人に自然に備わっているはずのポジティブな意志を無理に押し殺していると感じた。だから自分はそこを誤魔化さずに追究してみようと思った。言い換えれば、村上春樹は先哲より難しい問題設定をおこない、挑戦したのだ。

三島のニヒリズムの欺瞞はその作品によく表れている。『仮面の告白』では、彼は自伝風をよそおって沢山の嘘をついている。生まれた時のことを記憶しているというのも、同性愛者であるというのも、年配の娼婦を相手に性交できなかったというのも、全部嘘である。生まれた時のことを記憶しているのは、幼児期健忘のためありえない。同性愛者が嘘というのも『禁色』で暴露されている。同作では異性愛者の作家が女への復讐のために同性愛者の若者を使役する。三島はおそらく女性との恋愛が思うように行かなかった経験があり、プライドを傷つけられたのであろう。それをフィクションの中で復讐した。また『絹と明察』では、主人公が、かつて年配の娼婦を相手に童貞を捨てたことを吐露する。『仮面の告白』の作中では、主人公が本の筋をあえて作り替えて読むことをするが、これはまさに事実の作り替えを言っている。作者は自分が嘘つきであることを大胆にも告白しているわけだ。

『金閣寺』では、主人公は成長を遂げて最後に「生きよう」とポジティブに思うが、どう考えても結末の後に彼は犯罪者として捕えられ、世間のさらし者にされることは避けられないであろう。心中の楽観と悲観的状況は矛盾している。それが自分に嘘をついていると捉えられる。

『豊饒の海』では、もっと腰の据わった欺瞞が提出される。最後の場面で、これまでの記憶すべてが否定されるのだ。記憶が嘘であったというよりも、過去が爆破されてすべてが吹き飛ぶと言った方が正確だろう。ここまで行くと欺瞞というニュアンスは薄れてくる。正しいことが先にあって、それを覆い隠すのが欺瞞だが、『豊饒の海』の結末においては、正しいものはもはや寸毫も残されておらず、ただ嘘だけが全的に世界を覆っていると捉えられる。これぞニヒリズムの極致である。

三島は自身の欺瞞を隠さず、積極的に暴露する。だから当然、このような文学的結論は、作者自身の死に即座に結びつかねばならない。そのために彼は自死を選んだと理解できる。

村上春樹は嘘というテーマを三島から引き継ぎ、独自の変形を加えている。

『風の歌を聴け』は村上のデビュー作である。この作品は序盤にデレク・ハートフィールドという作家に関する記述があり、最後にまた登場するので、彼が作品の中心にいる存在だと理解できる。ハートフィールドとはじつは三島由紀夫のことである。村上は彼の『豊饒の海』に心酔していたので、その自殺に大きなショックを受けた。長いことそれに悩んでいた。それでデビュー作でそれを克服しようとしたのである。

最初の一行に次の有名な文章がくる。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

これは嘘である。その後にハートフィールドの自殺、つまり「完璧な絶望」が存在することが語られることを考えると、この箇所は次のように読み替えるのが正しい。すなわち「完璧な絶望が存在するところに完璧な文章は存在する」。これが本当である。しかし村上はそれを否定したかった。だから彼は自分の主張を織り交ぜるために嘘をつく。それは多少なりとも読解力のある読者ならすぐに見破ることのできる嘘だ。本作における村上は二つの自分に引き裂かれていると考えられる。三島の完璧な文章を愛し肯定したい自分と、彼の自殺を否定したい自分とにである。

この作品は全編が嘘で覆われている。主人公が三番目に付き合った女の子の自殺について、何らの心理描写もおこなわれていないのだ。しかしもちろん彼はきっちりとショックを受けている。だが彼はそれを隠し通す。我慢し通す、と言ってもいいかもしれない。その気持ちがレコード屋の女の子に婉曲的に託されて、作品の最後に素直な気持ちが吐露されている。

 左手の指が4本しかない女の子に、僕は二度と会えなかった。僕が冬に街に帰った時、彼女はレコード屋をやめ、アパートも引き払っていた。そして人の洪水と時の流れの中に跡も残さずに消え去っていた。
 僕は夏になって街に戻ると、いつも彼女と歩いた同じ道を歩き、倉庫の石段に腰を下ろして一人で海を眺める。泣きたいと思う時にはきまって涙が出てこない。そういうものだ。

この結論は、村上は最終的に優れた文学を捨てて、生命を取る選択をしたと理解できる。鼠が書く小説は退屈なものだ。「あい変わらず彼の小説にはセックス・シーンはなく、登場人物は誰一人死なない。」とある。これは、文学的に劣った位置につくことで、自殺を回避しているのだと考えられる。

以上のような村上の三島へのこだわりは『1Q84』で完成を見せる。この作品は真っ向から『豊饒の海』を攻撃している。

『1Q84』については本ブログ上で散々解説しているので余りここでは語らないが、嘘というテーマに絞って語ると、ポイントは次になる。

冒頭に『It's only a paper moon』の歌詞が引用される。

ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる

この引用は終盤のクライマックスでもくりかえされる。

 何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必ず高速道路に通じていると、心から信じなくてはならない。信じるんだ、と彼女は自分に言い聞かせる。あの雷雨の夜、リーダーが死ぬ前に口にしたことを青豆は思い出す。歌の歌詞だ。彼女は今でもそれを正確に記憶している。
 
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
 
 何があっても、どんなことをしても、私の力でそれを本物にしなくてはならない。いや、私と天吾くんとの二人の力で、それを本物にしなくてはならない。私たちは集められるだけの力を集めて、ひとつに合わせなくてはならない。私たち二人のためにも、そしてこの小さなもののためにも。

村上は嘘を本物にできると主張する。彼は三島の陥った文学的虚無が理解できた。極北とも言える境地が腹から理解できた。そして自分をそこから回復させたいと心から願った。三島の無を、嘘を本物にしたかった。だから上記のような文章が出てくるのだ。

以上から、村上は三島の駆使した嘘というテーマを引き継ぎ、それを自身に手繰り寄せ、善の意志をおりまぜているということが分かる。

本稿では三島のニヒリズムに対する村上の姿勢と、三島の嘘というテーマをどのように村上が引き継いだかを語った。