小説を読みたくない

ある日、通勤に使っている駅の中に本屋ができたので、僕はその中に立ち寄ってみた。すると僕はすぐにその異様な雰囲気に気圧されて退場せざるを得なくなった。その圧力の正体とはなんだろうかと、僕は帰り道に思案してみた。そしてある結論にたどりついた。圧力の正体、それは数々の本が放つ「俺を読め」という要求である。僕はその力にびっくりして「こりゃ、かなわん」とばかりに退場したのである。

なぜ自分はこうなってしまったのだろうか。十年前の僕は本屋が好きだった。面白い小説を見つけたいと願っていたし、じっさい買って読んでいた。なにも買いたいものがなくても、ただ多くの本に囲まれた空間にいるだけで幸福を感じられたものである。本屋は僕にとって素晴らしい場所だった。

それがここ三年ほどはめっきり立ち寄らなくなってしまった。読書量も落ちた。その代わり僕はツイッターを見たり、YoutubeでVtuberのゲーム実況の配信を見るようになった。ここで重要なのは、僕は別段ツイッターやVtuberを面白いと思っているわけではないということだ。つまらないと思っているにもかかわらず、面白い本の代わりにそれらのコンテンツを摂取している。

なぜ僕はこうなってしまったのだろう? いやその前に、なぜ僕はこの事態に対して「なぜ」と問わなければならないのだろうか? まずはそこを確認したい。もうこれから一生、かわいい博衣こよりちゃんの姿だけを眺めていればいいや、とは僕はならないのである。それはなぜだろう?

その理由は、僕が小説家として商業デビューを目指しているからだ。人に本を売りたいと思っている人間が「本屋なんて嫌い。本なんて読みたくない」と思っているのは明らかな矛盾である。僕はこの自己の問題に対して、解決に向かって努力をしなければならない。いますぐ答えを出せなくても、少なくとも正道に向かわなければならない。心からそう思う。

なぜいま多くの人が本から背を向けるのだろうか。いや、そこまで大きな問いはいったん置いておこう。かつて小説を読んでいたのに今は読まなくなってしまった人は、なにを考えて、なにを感じてその地点にたどり着いたのだろうか。彼らをカムバックさせるにはどうしたらいいのだろう。僕は何を書けば彼らに物語を届けられるのだろう。本稿ではこの問いを扱うことにする。

現代では多くの人が小説を書く。彼らは面白い小説を書く。実は、そこがよくない。「面白い」というのがよくない。なぜなら「面白がる」という能動的なアクションにはある種のエネルギーの消費が求められるからだ。でも今の読者には心のエネルギーが不足している。だから読む人に対して「面白がる」姿勢を求めるような作品は、いまは書いてはいけない。

そもそも作品を世に出すというのは、特に商業の流通に載せるというのは、自分は世に対して貢献します、という宣言である。やはりそうなると、自分勝手なことをしてはならない。他者に奉仕するということ、そして人を助けるということ。求められているのはそういう営為のはずだ。

だから今やるべきことなのは、読んだ人の心のエネルギーを回復させてやることである。彼らの負っている心の傷や苦境に理解を示し、寄り添うことだ。これはいわゆる「癒し系」とは違う。あれはなんというか、まだ心に余裕のある人がやる遊びだろう。「勝手に癒されていってください」という、読み手にアクションを求める行為だ。それに対して僕の提唱しているのは、言ってみれば外科手術だ。こちらから読者の病巣にきっちり手を入れる。物語の力でそういうことをする。

そんなことが可能なのだろうか。分からない。実は僕もまだその道を模索している段階だからだ。それができなければ僕にデビューの資格はないだろうし、機会が与えられたとしても活かせないだろう。

次の記事に続く。

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