影と鏡像2

影と鏡像という構造の中心にあるのは引き裂かれへの独自の態度である。影と鏡像は、主人公が二つの力に引き裂かれる状況に陥っているときに、その解決を、片方の抹消ではなく、両者の融合でおこなおうとする場合に立ち現れる。

物語の主人公は通常、何らかの異なる二つの力によって引っ張られている。例えば『金閣寺』の主人公は、美に陶酔している自分と、美と一体化できない自分とに引き裂かれている。『やせっぽちの死刑執行人』における主人公は、弱者を虐げて破壊する性格と、弱い者を憐れんで助ける性格の二つに引き裂かれている。『ロング・グッドバイ』においては探偵マーロウは、自分の利を取る生き方と、自己犠牲を遂行する生き方の二つに引き裂かれている。

主人公はそのような緊張した状況に耐えられない。そのままでは我が身がまっぷたつに裂けてしまうからだ。この葛藤を解消する方法は二つである。破壊か融和だ。すなわち異なる二つの力のうち間違った一方を抹消するか、あるいは二つの力を結合させて一つにするか、だ。

前者の道を選んだ場合は、間違った側は主人公と最後まで敵対するので、主人公はこれを殺さなければならない。たとえば『金閣寺』の主人公は金閣寺を焼く。じつは美に陶酔することを選択するのは死を選ぶことであり、事実溝口は空襲で金閣寺とともに死ぬことを望んでいたのだが、彼は最後には金閣寺を滅して美と一体化できない側の自分を取るのだ。すなわち彼は生きることを選ぶ。『やせっぽちの死刑執行人』においては主人公は父親の影響下にあり、はじめ死刑を崇高なものだと捉えていたのだが、苦難の旅を終えて成長すると、故郷にもどってきて死刑を事実上廃止させる。その結果、主人公へ最大の影響力を行使していた父親は死亡する。父親はひとりでに死ぬのだが、物語上の意味としては主人公が父親を打倒したことと同じなのである。『ロング・グッドバイ』においては主人公はマーロウで、敵対者はレノックスだ。マーロウは最後にレノックスへしたたかに別れを告げる。それ以降、彼らはもう二度と会わない。

後者の道、すなわち融和を選んだ場合は、物語はより複雑に、ミステリアスになる。何が正解かが明らかではなくなり、物語のクライマックスも難解になる。なぜなら目指すべき解決地点から見れば、敵対者はじつは敵対者ではないからである。この道を選んだ場合も普通は二つの力のうちどちらかが邪であり、どちらかが正となる。そして邪の側が敵対するのだが、主人公は苦難を乗り越えて成長し、邪の力は実際は自分の内部にも存在するということ、敵は自分自身と似ているということを突き止めて、理解する。すると敵対者は自分から崩れ落ちて降伏するのだ。主人公はそれを赦すことで両者は結合する。だから融和の道において真に必要なものは、力ではなく知恵である。主人公の側に深い意味における知恵さえあれば、敵は勝手に折れる。大事なのは相手を見抜くことだけだ。そこでは勇気も力も必要ない。ただ知恵と憐れみだけが求められるのだ。

上記の議論を反省すると、このテーマに性というテーマが隣接していることも理解されてくる。性はまさに男と女という異なる者の結合である。これら二つのテーマは性格が酷似しているので、くっついてくるのだ。

それにしても不思議なのは、なぜ我々は調和をとることを強制されるのか、ということである。そんな難しいことをせずとも、片方を殺せばそれで済む話ではないか。どうして融和などという面倒な道を我々は選ぶのだろうか。

実はそれには明確な理由がある。どうしても両者のどちらも殺してはいけない訳が存するのだ。

それは、影と鏡像が出現するタイプの引き裂かれには、その根本に必ず自己の願いと良心の間の引き裂かれが存在しているからだ。我々は願いも良心もどちらも殺してはならない。望みを抹殺してしまえばその人は生きる喜びを失い、屍同然の身となってしまうであろう。良心を捨てればその日から放蕩が始まり、やがては罪を犯すならず者となることは避けられないであろう。どちらも最後に待っているのは己の破滅である。我々は注意深く破滅の道を避けて、試練をくぐりぬけて成長し、引き裂かれた二つを融合させて新たな自己に目覚めなければならない。

次回からは影や鏡像がそのままの形で物語に出てくる種類の小説を分析して、上記の仮説を検証していく。