『日はまた昇る』を読む3

前回の記事で重要なことはすべて説明したので、ここでは細かい所を述べる。

コーンとドン・キホーテ

コーンはドン・キホーテ的な人物である。この小説の書き出しはコーンの人物描写となっているが、そこではいかにも『ドン・キホーテ』的な表現がなされている。

ロバート・コーンはプリンストン大学時代、ボクシングのミドル級チャンピオンだったことがある。ぼく自身はそんなタイトルなど何とも思っちゃいないが、コーンにとっては大きな意味があったのだ。彼はボクシングなど好きではなかった。というより嫌いだったのだが、プリンストンでユダヤ人扱いされて抱いた劣等感や屈辱を晴らすために、無理をして、徹底的に取り組んだのだった。

ここでは肯定と否定が交互にくりかえされている。そのどっちつかずの姿勢、あいまいさ、両義性がじつに『ドン・キホーテ』的なのだ。

また、彼は愚かである。空気が読めず、周囲の人から呆れられることがしばしばだ。コーンはブレットに心酔しているが、その様子はドン・キホーテがドゥルシネーアに抱く愛慕の念と変わりない。そして彼は愚直にブレットに突進し、あえなく袖にされるが、その様子はまるでドン・キホーテが風車につっこんでいくさまとよく似ている。コーンは愚かなのだ。

さらに彼は、本を読んで南米へ行こうと言い出す。それは騎士道物語を読んでおかしくなったドン・キホーテと同じである。

彼はその頃、W・H・ハドソンを読んでいたのである。それ自体は、別にとやかく言うことではない。だが、コーンが何度もくり返し読んでいたのは、『紫の大地』だった。『紫の大地』は、かなり歳をとってから読むと、えらく危険な書物なのだ。そこで物語られているのは、一人の典型的なイギリス紳士が実にロマンティックな国で繰り広げる壮麗にして空想的な恋の冒険だ。

また、作中の前半で舞台がパリからスペインに移るが、言うまでもなく『ドン・キホーテ』はスペインの作品だ。

『日はまた昇る』ではワインを革袋に入れて飲むところが散見される。これは『ドン・キホーテ』でも描写される場面で、登場人物たちはじつに旨そうにワインを飲む。

以上のコーンをドン・キホーテ的人物として書く姿勢は、ヘミングウェイなりの野心のあらわれだろう。彼は自分が乗り越えようとしている小説群を、まとめて『ドン・キホーテ』的な作品だとみなした。そしてそれを攻撃した。前回の記事で説明したが、『日はまた昇る』の物語は、コーンが滅んでロメロが現れるという構成になっている。これはすなわち『ドン・キホーテ』が滅び、『日はまた昇る』が現れるということだろう。

終盤の闘牛シーンでは、老いたベルモンテの衰退と、若いロメロの活躍が描かれるが、こうした交代劇は上記のことと繋がりがあると捉えられる。そう考えると、『日はまた昇る』というタイトルへの理解も深まる。じつはタイトル自体が、太陽――優れた小説――が沈んで消え、ふたたび現れるということを言っていると捉えられるのだ。

乗り物

本作には数多くの乗り物が登場する。馬車、タクシー、列車などだ。すべてを総合すると乗り物に乗っているシーンはかなり長い。では、なぜそこに文章が割かれるのだろうか。

考えてみると、やはり次の引用部分と関係があると分かる。

「外国人である、イギリス人である貴君は」ーー外国人はみなイギリス人だったーー「命よりも大切なものを捧げたのである」。なんという名調子! オフィスにでもぶらさげて、眩い照明でも当てておきたいところだ。その将校はにこりともしなかった。たぶん、ぼくの立場に身を置いていたのだと思う。「ケ・マーラ・フォルトゥナ(運が悪かったんだな)!ケ・マーラ・フォルトゥナ(本当に運が悪かったのだよ)!」  自分としては、そのことの意味を深く突きつめて考えたことはなかったのだと思う。ぼくはそれを軽く受け止めて、ただ人の迷惑にならないように努めている。

つまりジェイクはあらゆることを突き放して受け止めている。目の前で起きている出来事でさえ、彼の心からは距離が遠いのだ。彼は自分の欲や強い意志というものを発揮して、現実に介入するということをしない。したがってすべての出来事は彼の前をただよぎっていくだけである。

それは乗り物の体験と似ている。とりわけ自分で運転せずに座っているだけの乗り物体験とよく似ている。自分は椅子にすわり、おだやかに静止しているのだが、周囲の景色は猛スピードで目の前を通過していくのである。それほどまでにジェイクの心は現実と距離がある。それが乗り物がひんぱんに登場するゆえんではないだろうか。

よく反省してみると、ブレットとジェイクが最初に出会うのはタクシーの中なのだが、最後の場面でもまた二人はタクシーに乗っている。タクシーはかなり重要なモチーフなのだ。