『ドライブ・マイ・カー』を読む

村上春樹の『女のいない男たち』の全体については、すでに以前の記事で説明した。

本稿では、最初の短編『ドライブ・マイ・カー』の一部分をとりあげて説明する。主人公の家福が女性の運転について苦言を呈して、その後に男の運転について言及する箇所だ。次に引用する。

これまで女性が運転する車に何度も乗ったが、家福の目からすれば、彼女たちの運転ぶりはおおむね二種類に分けられた。いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか、どちらかだ。後者の方が前者より――我々はそのことに感謝するべきなのだろう――ずっと多かった。一般的に言えば、女性ドライバーたちは男性よりも丁寧な、慎重な運転をする。もちろん丁寧で慎重な運転に苦情を申し立てる筋合いはない。それでもその運転ぶりは時として、周囲のドライバーを苛立たせるかもしれない。

 

しかし彼らはどうやらその緊張感と自分のあり方とを自然に――おそらくは無意識的に――分離させることができるみたいだ。運転に神経を遣いつつ、その一方でごく通常のレベルで会話をし、行動をとる。それはそれ、こちらはこちらという具合に。そのような違いがどこから生じるのか、家福にはわからない。

ところで文学の基本的な技法として、主人公を愚者に設定する、というのがある。大切なことを理解していない、馬鹿者として主人公を描くのである。彼は作中でさまざまな失敗を演じる。その結果、何が正しいか、あるいは何が間違っているかが陰画として浮かび上がるように表れてくるのである。そのようになされた表現は率直なものよりもはるかに趣が深く、人々に強い印象を残していくものだ。

例としては、『ハックルベリー・フィンの冒険』がまさにその典型だろう。次は村岡花子訳の引用である。

 部屋が人でいっぱいになると、黒手袋をはめた葬儀屋はしずかな、人の心をなだめるような態度でそっと歩きまわり、最後の仕上げをし、人や物を整然と、居心地よくした。しかも猫のように物音をたてない。口はけっしてきかず、人々を順にならばせ、遅くきた者を中に押しこみ、通路を開け、それを頷いたり、手真似などでやってのけた。それから壁ぎわに自分の席をとった。この男のように静かな、滑るような、忍びやかな人間は見たことがなかった。そしてハムに笑い顔がないと同様、彼にも笑いがなかった。
 人々は小型オルガンを借りてきた――毀れたものだった。なにもかも用意がととのうと、若い女がすわって弾いた。オルガンは相当キーキーいってまるで疝気にでもかかったような音を出した。人々はみなそれに声を合わせて歌った。僕の考えでは、いい思いをしているのはピーターだけだった。それからホブソン牧師がおもむろに厳かに口を開き、話を始めた。すると、同時に、今まで聞いたこともないような、恐ろしい騒ぎが地下室で突発した。それはたった一ぴきの犬にすぎなかったが、その騒ぎようといったらなく、いつまでも騒ぎつづけていた。牧師は棺桶の前で立往生したなり待たなければならなかった――われわれは自分の考えさえ聞き取ることができないほどだった。実に間が悪い感じで、だれもどうしていいかわからないようすだった。が、じきに人々はその足長の葬儀屋が牧師に、「心配しなさるな――私に任せておきなさい」というような合図をするのを見た。それから、葬儀屋は身を屈め、ちょうど肩だけを人々の頭の上に出し、壁にそって滑るように歩き始めた。そのあいだも騒ぎはますますひどくなる一方だった。ついに葬儀屋は部屋の二つの側をぐるっとまわって地下室に姿を消した。それから二秒もすると、ピシャッと打つ音がきこえ、犬はなんとも言いようのない声をひと声ふた声あげてから、ぴたりと鳴きやみ、あとは死のようにしんと静まった。そこで、牧師はやめた場所からその厳かな話を始めた。一、二分すると、この葬儀屋の背中と肩とがまた壁ぎわを滑るようにしてやってきた。こうして部屋の三つの側をまわってから立ち上がり、口に手を当てて人々の頭越しに牧師のほうへと首をさしのべ、嗄れた囁き声でこう言った。
「奴はねずみを捕まえたんです!」
 そう言うと、彼は再び身を屈め、壁ぎわを滑りながら自分の席へ戻った。これで人々はおおいに満足した。当然、知りたがっていたのだから。このような些細なことは手数もかからないし、人が尊敬され、好かれるようになるのは、このような些細な事柄なのだ。町にはこの葬儀屋くらい人気のある男はなかった。

主人公のハックは葬儀屋を手放しでほめたたえる。実は、現実には葬儀屋は差別されていたのである。ハックはそれを知らずに「町にはこの葬儀屋くらい人気のある男はなかった」と言う。もちろんこれは現実とは真逆のことだ。これによって読者は単純なギャグとしての面白さと、差別という不道徳の発見とを同時に味わうことができる。この場面にはいくつもの魅力が凝縮されているわけだ。

ここで『ドライブ・マイ・カー』の方に話を戻そう。家福は女性ドライバーを糾弾する。これは典型的な女性差別である。次に男性の運転は落ち着けると主張する。なぜなら男は「緊張感と自分のあり方とを自然に――おそらくは無意識的に――分離させることができる」からだ。

じつはこの一文は男性の性欲の特徴についての描写になっている。男の性欲はあらしのように強力だ。それは常に彼らの中で荒れ狂い、うずまいている。だから男たちは普通、非常に大きな抑圧を自分自身に課している。性欲が意識されないよう、姿をあらわさぬよう、湖の底にしずめているのである。しかもそれは無意識のレベルでおこなわれているので、男たちは自分で自分を押さえつけていることに気がついていない。

そのような男性の自覚のなさは、「盲点」という言葉で作中で指摘される。次の「みんな」とは、男たちのことを指している。

「女の人が何を考えているか、僕らにそっくりわかるなんてことはまずないんじゃないでしょうか。僕が言いたいのはそういうことです。相手がたとえどんな女性であってもです。だからそれは家福さん固有の盲点であるとか、そういうんじゃないような気がします。もしそれが盲点だとしたら、僕らはみんな同じような盲点を抱えて生きているんです。」

つまり、冒頭では「男って運転がうまいよね」と長所として言われていたものが、終盤では「じつは男って盲点があるよね」と短所として指摘されているわけである。

このような議論を経てから冒頭の引用箇所をおもいかえしてみると、それが実は愚者としての表現であることに気がつかされる。家福は自分の弱点を思い違えて、長所だと言ってしまっているのである。しかも思い上がって女性ドライバーを糾弾すらしている。最後の「そのような違いがどこから生じるのか、家福にはわからない。」という一文は示唆的である。これは「じつはこの箇所はダブルミーニングですよ」という作者からのほのめかしだと受け取れるのだ。

ここまで来たら車がなんのメタファーかということはもうお分かりだろう。それは性欲のことを指しているのだ。