鉄道について考える

僕はVtuberの文野環ちゃんが大好きだ。そして文野環ちゃんは鉄道が大好きだ。それで僕も最近鉄道というものに興味を持ち始めた。好きにはなれそうにないのだが、知的好奇心を抱くことはできそうだ。そこで今回は鉄道というものについて、文学作品を中心に考察を行っていくことにする。

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まずは鉄道のシステマティックな面を深堀りしてみよう。鉄道は社会の要請に従って大量の乗客と貨物を運ぶ。それは鉄道会社に勤務する大勢の人員が個人としての意思や都合を抹殺し、一つの目的に従って動く時に初めて達成される成果である。巨大な機械を分刻みでコントロールするために、そこでは多くの物事が犠牲にされる。古い文学作品はこのような鉄道の無慈悲な側面を見逃さずに克明に描いた。次の場面はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』から。

 コーリャは、一同のなかではいちばん年下であり、そのため、年上の仲間たちからいくらか見くだされていた。そこで彼は、もちまえの自尊心から、ふでぶてしいほどの大胆さからか、深夜、十一時の列車が通過するときにレールのあいだにうつぶせになり、列車が全速力で走りぬける間、身動きせずにがまんしとおしてみせると言い出したのである。下調べをしたところ、じっさいに列車が上を通過しても、横になっている少年の体には触れずにすむことがわかった。しかしそうとわかっているにしても、その間ずっと横になっているというのは、どんな気持ちだろう!
(ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』)

ホロコーストを可能にしたのもまた鉄道である。殺害に特化した施設である収容所に大勢の人を鉄道で集めたからこそ、あのような大量殺戮が実現できたのである。

 翌朝、私たちが駅のほうへと歩いてゆくと、一列車ぶんの家畜用貨車が私たち待ちうけていた。ハンガリー人憲兵は、貨車一台につき八十人ずつ私たちを乗り込ませた。彼らは数個の丸パンと、バケツ数杯の水とを置いていった。窓の格子を点検して、しっかり打ちつけてあるかどうか見ていった。貨車は封印された。貨車ごとに、一名の責任者が指名してあった。もしだれかが逃亡したら、その責任者が銃殺されることになっていた。
 プラットフォームには、満面に笑みを湛えたゲシュタポの将校が二人ぶらついていた。結局、ことは無事に運んだのであった。
 ながながと尾を引く汽笛が大気をつんざいた。車輪が軋みだした。私たちは途についたのである。
 横になるどころか、全員が腰を下ろすことさえ論外であった。順繰りに腰を下ろすことになった。空気は薄かった。窓ぎわにいた人たちは運がよかった。花ざかりの風景がつぎつぎと移ってゆくのが見えたからである。
 まる二日も経つと、咽喉の渇きにさいなまれだした。ついで暑さが耐えがたくなってきた。
 (エリ・ヴィーゼル著 『夜』)

以上のように鉄道というものが文学上の重要なモチーフとして扱われていることを知っていた村上春樹は、自身も作品の中で鉄道を扱うことに挑戦してみた。それが『1Q84』という長編小説である。

別の記事で解説したが、『1Q84』においては自動車が肯定的に扱われている。その次の長編である『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では鉄道が肯定的に、自動車が否定的に扱われていることに思いを致すと、『1Q84』では鉄道が否定的に扱われているのではないかという推測が成り立つ。事実、青豆がさきがけのリーダーを殺害した後、彼女はリトル・ピープルの妨害を受けて、電車に乗って逃げることが出来なくなってしまうのだ。本来は新宿駅で列車に乗るはずだったのが、彼女は計画を諦めてタクシーに乗って逃亡する。つまり鉄道を諦めて自動車に頼ることで、主人公は救われるのである。

『1Q84』においては、鉄道はリトル・ピープルの支配する領域として扱われているようだ。リトル・ピープルとは、できる限り簡単に言うと、個人が望みを諦めた時に空気中に吐き出されるもので、普段は無意識下に隠れているために見ることができない。しかし無数の人々から生みだされたリトル・ピープルはやがて一人のビッグ・ブラザーを依り代として集合し、その強大な力を発揮して世界の趨勢に影響を及ぼすことになる。日本における鉄道というシステムには、この仕組みに近似したところがあるというのが村上春樹の見解なのだろう。人々の長距離を楽に移動したいというささやかな願いが集合すると、それは鉄道会社というビッグ・ブラザー的な形をとって、巨大な駅と線路を国土に敷設し、分刻みのスケジュールと意志を殺した機械的な労働を構成員に強いるようになる。それは本来は乗客の幸せに貢献するはずのものだったのだが、ラッシュアワーという悲惨な現象まで現出させるに至ってしまった。今や鉄道会社の人員だけでなく、乗客までもが個人の意志を鉄道に殺されているのである。巨大なシステムの持つ力は、それ自体が勝手な意思を持って暴走し、本来の支配者である人間をも苦しめるようになる。

ところで『1Q84』のテーマは個人の成長ということだ。村上春樹は作中で個人の望みを大切に扱う。人は自分の中心的な欲望を自覚し、それに向かって邁進するべきだというのが作者の主張なのである。だから彼は鉄道を否定し、個人の持ち物である自動車を肯定的に取り上げる。そのような対立の図式を用意することで、みずからのメッセージを鮮明にしているのだ。

そして、どうやらこのような主張には予言的な面があったようだ。いま社会は完全な自動運転の車の実現に向けて動き出している。もし完全な自動運転が実現されれば、人々は少なくとも普段の生活圏内では鉄道やバスなどを捨てて、車に頼るようになるだろう。その方が遥かに自分のスペースというものを守ることができ、心を平安に保って暮らすことができるようになるからだ。個人がより大切にされる社会というものが近づきつつあると言える。

さて、最後に映画『シン・エヴァンゲリオン』を取り上げよう。この作品も立派な文学だと言える。このアニメにはこれでもかというほど鉄道が出てくる。序盤の農村には廃車となった列車や駅舎が出てくるし、シンジとゲンドウの対話は動く電車の中で行われるし、ラストシーンでは再び駅と電車が姿を現す。ちなみに告知のポスターも線路を描いたものだった。

僕は『シン・ゴジラ』を視聴していないのだが、この映画の中でも鉄道が重要な役割を果たすらしい。おそらく監督の庵野秀明は鉄道が大好きなのだろう。『1Q84』ではやや図式的な取り上げ方がされているのに比べると、シン・エヴァンゲリオンは非常に具体的・多面的に鉄道を描いている。これは好きでなければ出来ない創作の仕方だと思う。

ちなみにVtuberの文野環ちゃんも電車に乗るのが好きらしい。彼女にはこだわりがあって、電車に乗っている時は決してスマホを覗かず、窓から見える外の景色をじっと見ているのだと言う。椅子の軋む音やつり革の揺れる様子も好きだと言う。

彼女の話を聞いて僕が思ったのは、自動車や電車や飛行機といった乗り物には矛盾した性質が備わっているということだ。自分は身を動かしていないにも関わらず移動できるという快適な矛盾だ。そして人間は矛盾したものを矛盾なく統合しているものが大好きだから、乗り物も大好きなようなのだ。三島由紀夫はこのことを海辺を例にして次のように表現している。

 本多はその左側に、砂に胡坐をかいて、ただ海に対していた。海はまことに穏やかだったが、その波の眺めが彼の心を魅した。
 彼の目の高さと海の高さとは、ほとんど同じ高さとしか思われないのに、すぐ目の前で海がおわり、そこから陸がはじまっているのがふしぎに思われた。
 本多は乾いた砂を片方の掌から片方の掌へ移しながら、砂がこぼれて掌が虚しくなると、またうつつなく新らしい砂をつかみ取りながら、目も心もその海に奪われていた。
 海はすぐそこで終る。これほど遍満した海、これほど力にあふれた海がすぐ目の前でおわるのだ。時間にとっても、空間にとっても、境界に立っていることほど、神秘な感じのするものはない。海と陸とのこれほど壮大な境界に身を置く思いは、あたかも一つの時代から一つの時代へと移る、巨きな歴史的瞬間に立会っているような気がするではないか。そして本多と清顕が生きている現代も、一つの潮の退き際、一つの波打際、一つの境界に他ならなかった。
 (三島由紀夫 著 『春の雪』)

矛盾したものを統合しているという意味においては、エヴァンゲリオンもまた等しい所がある。庵野秀明は巨大ロボットを父性と母性の折衷であると喝破した。

そしてこのことは、鉄道についても同じことが言える。外側から見れば列車は、猛スピードで走る巨大な鋼鉄の塊の威容を誇るのだが、それはまさに父性的である。実際列車は乗客や貨物などを大量に運ぶことができるほどに力持ちなのであり、男性的なのだ。システマティックなところも高圧的なリーダーが組織を束ねている様を思わせる。駅員や運転手や駅の窓口の係など、じつに大量の人間を統括して分刻みのスケジュールを固守させる点は強情な男性原理によって実現されるところだ。

しかし列車の中は快適だ。乗客はそこで椅子に座ってさえいれば目的を達成することが出来る。クーラーや暖房が利いているし、時刻表は正確なので、利用者は母親の膝の上にいるような信頼を鉄道に抱くことが出来る。それは実に母性の原理に他ならない。

こうして考えていくと、『シン・エヴァンゲリオン』はとても深い鉄道の描き方をしていると言えよう。エヴァンゲリオンという兵器は、要は鉄道なのである。このような単純な解釈をすると、『シン・エヴァンゲリオン』の物語の読解は容易になる。鉄道のみに注目して話の流れを見てみればいいのだ。序盤の農村においては鉄道は壊れてしまっており、本来の役割を果たせない状態にある。しかしシンジが世界を造り替えた後のラストシーンでは、正常に復した鉄道が姿を現す。だが主人公とヒロインはプラットフォームにいるにも関わらず、列車には乗り込まずに駅舎を離れて外へと駆け出していく。これは一体何を意味しているのだろうか。

この記事で解説したように、エヴァンゲリオンを消し去ることは父母との別れを意味する。この解釈と、エヴァンゲリオン=鉄道の解釈の上に立つと、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」は「さようなら、お父さんお母さん」を意味し、これは同時に「さようなら、全ての鉄道」を意味していることになる。シンジとマリが駅から脱するのは父母との関係性からの解放を意味しているのである。

シンジは自らの内面にある母性を発展させて、ゲンドウとの戦いに臨んだ。彼は力で父親を屈服させるのではなく、対話で父親を倒すのである。シンジが槍を用いて世界を再創造するのは日本神話からの引用だが、彼は神話のように異性のパートナーと共にそれを行うのではなく、一人で実行する。シンジは自分の心の中に父性と母性の両方を発展させたので、一人で問題ないのだ。そして彼は世界を平常に復する。このことの象徴が鉄道の復活である。鉄道から生まれたエヴァンゲリオンは消え去り、もとの鉄道が取り戻された。それはシンジの力によるものだ。しかし彼自身はもう鉄道を必要としていないので、成熟した女性と共に自由を手にし、外へと駆け出していくのである。

ここまでの考察を念頭に入れて『シン・エヴァンゲリオン』の序盤の農村のシーンを見返すと、壊れた車両が図書室として再利用されている点は注目に値する。図書室は内側に客を招き入れて、人々に静謐と、物語という名の深い知恵と栄養を与える。それはまるで胎児を育てる妊婦の腹のようだ。鉄道は自らの在り方を通して、シンジに対し「今は走るべき時ではない。回復し、魂を育むべき時だ」と教えているのである。

以上の『シン・エヴァンゲリオン』の議論をもとにして社会を論じるならば、我々に今必要とされているのは我々自身を縛り付ける鉄道的な在り方ではないということだ。そこから脱して自由になるためには、我々は内面の母性を発展させなければならない。それも、男性が母性を発展させるということが求められているというのが、どうも結論になるようなのである。

僕はまだこの結論を呑み込めていない。端的に言って、よく分からない。僕には母性がない。僕には異性のパートナーがいない。僕はまだまだ成長できていない。

ここで本稿を閉じることとする。それにしても残念なのは、僕が鉄道というものを好きにも嫌いにもなれないことだ。もし好きであったなら文野環ちゃんや庵野秀明と同じ光景を見ることができたかもしれないのだが。彼女の配信の鉄オタ回を隅々まで理解し、シン・エヴァンゲリオンを鑑賞した時の感動もより深いものになっていたかもしれないのだが。しかし僕にはそれはかなわないようだ。どうしても鉄道に深い関心を抱けないからだ。僕は今、そのことが少しだけ寂しい。