僕にとっての最大のテーマ

僕にとっての最大の文学的なテーマは死だ。それに興味がある。ふりかえってみると僕の心に残っている小説はどれも死を中心に据えていた。『失われた時を求めて』、『カラマーゾフの兄弟』、『豊饒の海』などだ。

文学とは何だろうか。それは結局は物語だ。レトリックなどに大した意味はない。

では物語とは何か。それは嘘だ。現実と対になる概念。それが嘘であり物語である。

それでは嘘とは何だろうか。もっと言うと「物語的な嘘」とは何だろうか。それこそがここで真に問うべきものだと思われる。

僕の考えでは、物語的な嘘とは、つらい現実の慰めとなるものである。現実はつねに厳しい。それは我々の考えていること、つまり「こうであって欲しいな」という願いをいつも裏切る。こちらの思い上がりをただし、鼻っ柱を折ってくる。人と喧嘩しても勝てない。知恵はどうも他人より回らぬらしい。金はないのであれもこれも買えない。理想の異性はあらわれない。願いはかなわない。そして最後には必ず死が待ちうけており、我々のすべてを粉砕してくる。しかも我々は、一切が無に帰することを知りながら生きなくてはならないという、きびしい重荷を課せられている。

物語は、おそろしい現実と切実な個人の願いとが衝突し、のっぴきならない状況に陥ったところに発生する。両者を和解させ、なんとかこれで勘弁できないだろうか、と人をなだめるために存在する。現実の側は一歩もゆずってくれないから、そこにおいて可能なのは人間側の妥協だけである。

この事実は、裏を返せば、相対する現実がきびしく重いものであるほど、それに挑む物語の側もまた強力でなければならないということを意味している。

ではもっとも辛い現実とはなにか。それは死だ。みずからの死よりもつらいことは存在しない。

したがって、死を意識して中心的なテーマに据えれば、かならず良い物語ができあがる。これは単純な理屈だが、たぶん真理だろうと僕は思っている。僕の文学観はシンプルだ。どの作品にも漫画『ドラゴンボール』でいうところの戦闘力があって、上下を決定することができる。二つの作品に手足が生えて取っ組み合いを開始すれば、必ず勝敗が決定されるというのが僕の考え方だ。強いか弱いか。文学はそれだけのものでしかないというのが僕の価値観なのだ。もちろん個人の嗜好というものも認めない。個人的に好きとか嫌いとか言い出す人は許せない。良いか悪いかしか認めるつもりはないのだ。

だから、その良さの頂点に位置する作品をいつか見てみたい。それも同時代の人間がつくった物を見てみたい。それはきっとこれまでのどんな作品よりも強く死を意識したものに違いない。そういう風に僕は思っている。

もしかすると、虚無こそが真実で、私たちが見る夢はことごとく存在しないのかもしれない。だが、そうなったときには、かような音楽の楽節にしても、私たちの夢に関わって存在する観念にしても、無に帰するだろう。そう私たちは感じる。私たちは滅びるだろう。だが、私たちはそうした楽節や観念という神聖な囚われ人を人質としている。それらは私たちと命運を共にするだろう。それらとともに死ぬとすれば、死の苦さは少し和らぐかもしれない。死の不名誉さもいくらかは減じるかもしれない。そして恐らくは、死はもっと不確実なものになるかもしれないのだ。
(『失われた時を求めて』高遠弘美訳)