『カラマーゾフの兄弟』に反論する

『カラマーゾフの兄弟』は偉大な作品だ。でもその主張は間違いである。あるいは不完全な部分があると僕は考える。

ドストエフスキーは引き裂かれが間違った状態であると捉えた。だからそれの解決に向かって物語を前進させて、じっさいに終局させた。引き裂かれを生じさせている二者のうち、片方を死なせて片方を生かしたのである。

しかし僕は引き裂かれが間違った状態だと思っていない。それはそのままでいいと思っている。むしろそれこそが善であり、人が生きるということに他ならないのだと捉えている。だから僕は『カラマーゾフの兄弟』に反論しなければならない。それをここに書く。

ドストエフスキーはドン・キホーテやハムレットのような引き裂かれた演技的なキャラクターに強い関心を寄せた。正確には人物というよりも、その構造に関心を寄せた。それはなぜか。そこに道徳的な問題を見出したからか、それとも読者をひきつける大きな魅力をつくりだせる仕組みだと思ったからか。いや、いずれも違う。ドストエフスキーが引き裂かれた演技的なキャラクターに注目したのは、それが小説を駆動するメカニズムとして、非常に強い力を発揮するものだと気づいたからだ。だからその仕組みの根本や由来を問うことを『カラマーゾフの兄弟』のテーマに据えた。

ここまではいい。この考え方は正しい。

問題は、ドストエフスキーが善と悪の対立にもっとも大きな関心を寄せたことだ。こういう捉え方をした瞬間に、もう善が勝利して悪が滅びるという結末が導き出されてしまう。あとはその過程を書くだけということになる。死は否定され、キリスト教的な復活が肯定される。過程はあくまでも結末をよびよせるための撒き餌にすぎない。

僕がこの作品に反感を覚えるのは、そのような、結末にすべての力点を置く姿勢だ。途中の経過ではなく、すべてが結末に集中している構造と、その構造の裏にある考え方が嫌なのだ。

この小説は人生に一度だけ書ける作品である。以前の記事で述べたように、ドストエフスキーは自己の生命をかけて『カラマーゾフの兄弟』を書いた。そして死んだ。引き裂かれた演技的なキャラクターを自分自身に設定して、その上でそれを否定したのだから、これは至極当然の帰結である。

でも、この世のほとんどの人間はげんに生きている。死に瀕している人間も、いることはいるが、少数派だ。一個の人間の人生に注目しても、死神の吐息が感じられるほど終わりに接近している時間は短い。人生のほとんどの期間は、たとえ不健康であったとしても、老いていたとしても、生の側に属しているのである。

つまり僕らの大部分は『カラマーゾフの兄弟』の物語のように生きることはできない。それは死ぬことを意味するからだ。死の間際には可能かもしれないが、それより前の期間には不可能だ。はっきり言ってこの小説は、感動は絶大だが、知恵という意味ではぜんぜん役に立たないのである。そこらへんが例えば『1Q84』などとは違っている。『カラマーゾフの兄弟』を読んで成長する人間がはたしているのだろうか。そう勘違いすることは可能だろうが、実質と言う観点ではたぶん無理だろう。

問題の根本に話をもどそう。僕はドン・キホーテやハムレットのような引き裂かれた演技的なキャラクターの構造そのものを問うさいに、善と悪の対立をとりあげるのに反対である。そうではなく、生と死の対立に注目するべきだと思う。そして、死という結末ではなく、げんに生きている間に人は何ができるかを問うべきだ。つまり、二つの異なる力に引っ張られながらも何とかバランスをとって踊りつづけ、くるった回転台の上でも人間は仕事ができる、善をなせるんだということをこそ主張すべきだ。『カラマーゾフの兄弟』は引き裂かれが終結する際にようやくすべての貯金が支払われる仕組みになっている。でもそんな生き方は実際には無理だろう。あまりに苦しいし、未来に望みをかけすぎていて、不確かにすぎる。人は生きている間に報酬が得られる生き方を志向すべきだろう。たぶんその方が幸福だ。そして僕は、不幸な人よりも幸福な人が多い世界の方が好きである。

もちろんそのような作品をつくるとなったら、我々はおそらく引き裂かれの状況でもなんとかバランスをとって踊りつづけるためにはどのような力や仕組みが必要であるかを、問うていかねばなるまい。しかしその話はまた別の機会にすることにしよう。