『チェンソーマン』第一部を読む

藤本タツキの漫画『チェンソーマン』について書く。

物語の中心軸

物語はマキマとデンジの関係性を中心に進行する。それ以外の登場人物はすべてこの中心軸に寄与するためのサブキャラクターに過ぎない。デンジにとってマキマは恋人であり母親である。同時に上司であり、巨大な敵でもある複雑な存在だ。物語の序盤でデンジはマキマと出会いその庇護下に入るのだが、最後にはマキマを倒してその支配から脱する。そこで物語はエンディングを迎える。

搾取と支配

デンジは第一話ですでに搾取されている。彼は借金まみれで働いており、食べる物にも困っているぐらいだ。彼を搾取する立場のヤクザの老人はこう言う。「それにデンジのいいトコは逆らわねえトコだ」。「デンジよぉ…。俺達ぁテメエに感謝してんだぜ。犬みてえに従順だし、犬みてえに安い報酬で働いてくれる」。つまりデンジは搾取されるのにふさわしい性格をしているらしい。

このようなデンジの性格はその後もひきつづき語られる。彼は自分をバカだと認めており、開き直っている。彼は食事に執心し、また性欲のような本能的な欲望にしか興味を持たない。これはデンジがあえて物を考えないようにと努めている証左である。自分で考えず、人から指令を与えられるのを待っているのだ。

2話でマキマはデンジに命令する。「忘れたの? キミは私に飼われてるんだよ。返事は『はい』か『ワン』だけ。いいえなんて言う犬はいらない」。犬という単語は本作でくりかえし登場する。支配や搾取といった構造が中心のテーマにあるという事が、序盤ですでに示されていると分かる。80話でデンジはマキマの犬になりたいと発言しているが、81話で犬になりたいとはどういうことかと彼はマキマから問われる。そこで主人公はこう答える。「俺…もう…自分で何も考えたくねーです…」。「マキマさんは俺より頭がいいでしょ? だったらマキマさんの言う事黙って聞いてりゃ考えなくていいし…」

その後92話まで物語が進行して、ようやくデンジは自分が支配され搾取されてきたことと、その弊害に気がつく。

「こう見えてもいま俺はな、俺ん心はなあ、糞詰まったトイレん底に落ちてる感じなんだぜ。今までの良い思いも悪い思いも全部…全部が他人に作られたモンだったんだ。俺は最高にバカだからバカみてえにと暮らしてたんだけど気づいてみりゃあバカのせいで全部ダメになってたんだ。
 今思えば俺はなーんにも自分で決めてこなかったな…。誰かの言われるがまま何も考えねえで使われてさ…。決めてたのは昼飯になに食うかくらいでよ。
 これから生き延びれても俺はきっと…犬みてえに誰かの言いなりになって暮らしてくんだろうな」

こうした搾取というテーマは、体の各部を売り払うという表現でも示されている。デンジは物語の開始時点で目玉や腎臓や金玉を売り払っている。また姫野を代表としてさまざまな人物が、自分よりも強力な存在である悪魔に体を譲り渡している。体の喪失は絵として直接的に表現されるので、読者の受けるショックは大きい。

以上のすべての議論を反省して再び第一話を見ると、『チェンソーマン』の物語を語る上でとても大切なことが示されているのが分かる。デンジは、「犬」、つまり搾取される側の見た目をしたポチタと対等な約束をしているのだ。「お前を助けてやるから…俺を助けろ。やっぱ俺も死にたくねえ…」。デンジの長所は犬を犬として扱って虐げないところにある。彼は犬を自分と対等の者として扱う。そういう優れた倫理を備えた男なのだ。その報酬として彼は大きな力を得る契約をポチタと結べたと考えると、得心がいくのである。

普通の夢

デンジに明確な目標は存在しない。彼はただ普通になれればよいのだと主張する。まともな食事をして、風呂に入り、壁と屋根のある所で睡眠が取れればそれでいいのだ。彼は長い間ドン底の生活を送ってきたため、普通のことがすでに「高い」目標なのである。

9話でヒルの悪魔があらわれてデンジを喰らおうとするが、その時にデンジはアキや警察官やパワーを指して「みんな偉い夢持ってていいなァ!!」と皮肉を言う。彼は悪魔に夢バトルなるものをもちかける。「俺がテメーをぶっ殺したらよお~…! てめえの夢ェ! 胸揉む事以下な~!?」

彼は「普通」の存在が持つ「高い」夢に皮肉を言っている。もし目標と現在の自分の位置の差異だけが問題になるのなら、低俗な目標だって充分「高い」目標のはずであると彼は主張したいわけだ。なぜならデンジはドン底にいたのだから。

そのような状態が長く続くが、最終的に92話において、デンジは明確な高い目標を持つようになる。テレビが報道している通りの格好いいヒーローになりきり、ステーキを食べまくり、彼女をたくさん持ち、セックスをしまくることを目標に据えるのだ。

しかしそのためにはデンジはマキマを倒さなければならない。

家族と復讐

本作では家族はネガティブな物として扱われている。家族との繋がりを大切に思っている者の多くが悲劇的な末路をたどる。

その代表がアキだ。後半でアキの子供の頃の回想が描かれ、彼が両親や弟と仲睦まじい様子が語られるのだが、家族を銃の悪魔によって殺されたことにより、アキは復讐の鬼と化してしまう。その結果として彼は悪魔の力を使いすぎて、寿命が残りわずかな所まで追い詰められてしまうのだ。彼はさらに、デンジやパワーのことを新しい家族も同然に思って行動に出るのだが、それが裏目となって表れて、不幸な死に方をするばかりか、大切に思っているはずのデンジに大きなトラウマまで残してしまう。

姫野もバディであるアキを大切に思うあまり、自分の体をすべて悪魔に捧げるという決断を下して死ぬ。

また荒井がコベニを庇って死ぬ点も見逃せない。荒井は飲み会で嘔吐するデンジを介抱するのだが、そのときに仕事帰りの酔った母親をよく介抱していたことを言うのだ。荒井はそれを懐かしい思い出として吐露した。つまり彼は親にプラスの感情を抱いている。コベニはそれとは真逆だ。彼女は一見家族に奉仕しているように見えて、実は悪感情を抱いている。15話でこのような会話がある。

荒井「デビルハンターやって兄を大学に行かせたいんだろう!?」
コベニ「半分無理やりなんです……。親が優秀な兄だけは大学に行かせたいからって私に働かせたんですう~…。風俗かデビルハンターしか選択肢なかったんですう~! 私も大学行きたかったんですう~!!」

つまり家族を大切にしている荒井は死んで、憎んでいるコベニは生き残るのだ。

さらに、92話でデンジとともに避難したコベニは岸辺に問う。もう家族とは一生連絡をとれないのか? そうだと肯定されてコベニは「よかった」と言う。父と母から離れる理由ができてよかったと言うのだ。このコベニの発言をヒントにしてデンジは初めて本格的にマキマの支配から脱することを考える。つまりコベニは物語の中心において、主人公をプラスの方向に動かす力を持っているのである。

作者はこの作品において、家族というものを個人の自由な意思を殺す存在として書いた。

以上の議論をもとにして復讐ということを考えてみる。家族を殺されて復讐をするというのは、簡単に言えば、死んだ人間の怒りと意志を代行するということである。つまりそこに自分の意志はない。他人に頭を乗っ取られているようなものだ。それは本作の最終目標である、支配を脱して自由になるという方向性に背いている。だから家族は悪として扱われる傾向にあると考えると得心がいく。

マキマの打倒

マキマは最強の存在である。彼女は自分より程度の低いと思った者を支配下における。それで彼女は多数の悪魔をしもべとしてデンジにぶつける。いくら傷つけても、内閣総理大臣との契約によって他の者へダメージを転嫁できる。

こうした設定上の強さに加えて、マキマは心理的にも完全にデンジを掌握している。彼女は言ってみれば万能の親である。何でもできる権力を保持している上に、デンジに愛情を与える。デンジはそれを受け取って傷ついた心を癒やしさえするのだ。彼はそのような女を倒さなければならないが、できずに苦悩する。マキマがもしも鉄壁の存在としてデンジに強固に反対するなら、彼もぶつかっていくことができるだろうが、彼女はむしろ優しく彼を包み込む。デンジもまたマキマが好きなので、反抗できない。にっちもさっちもいかないのだ。

しかしそんな最強の存在にも倒す術は存在する。それは、こちらからマキマを見限ることだ。

デンジはマキマを倒した後、公園で岸辺に次のことを言う。

「俺はね賭けたんですよ。マキマさんが俺じゃなくてずーっとチェンソーマンしか見てない事に…。俺ん事なんて最初から一度も見てくれてなかったんだ…。」

これは言い換えると、マキマはありのままのデンジではなく、自分の理想像をデンジに見いだしていたということを意味する。デンジはそれを悟り、彼女の愛を拒否する。するとあっさりとマキマは倒されるのだ。

アキ

デンジを除くと作中で最もドラマが多いのはアキである。彼はデンジと同性であり、マキマを好んでおり、その部下についている。彼はデンジと非常に強力な糸で結ばれており、ほとんど運命共同体のような人物である。

二人は対照的だ。デンジがタフで物を考えず、頭のネジが外れているのに対して、アキはまともな性格をしている。繊細な男なのだ。またアキはデンジと違いまともで幸福な家族を持っていた。彼はもともと普通の位置にいたのが、悪魔によって不幸に落ちてしまった人間である。その結果として公安にいる。一方デンジはもともとドン底にいたのが、地位が向上して公安の職に就く。そのような、出身位置と運動の差異が二人にはある。またアキは復讐を原動力としているのに対して、デンジは仲間が死んでも復讐に興味がない。ここらへんも対照的である。

アキは、デンジがまともでないから、その代理としてまともな苦悩を受け止めているのだと捉えると納得が行く。アキはデンジの、ありえたかもしれない別の可能性なのである。アキの死によって二人のキャラクターは合流する。そこでデンジは最悪の殺し方をしてしまい、家族であるアキの喪失に深いショックを受けるのだ。言い換えればデンジもまたアキ的なキャラクター性を獲得するわけである。

パワー

パワーはデンジをそのまま女に焼き直したようなキャラクターである。アキよりもむしろパワーの方が、同性の兄弟とか友達にふさわしい。パワーもまたデンジ同様、物を深く考えない、食事に執心するなど、多くの共通点がある。

ただしデンジが組織の言いなりになるのに対して、パワーは反抗的である。彼女は個人の自由を大切にしている。だから猫を飼うのだと捉えられる。マキマが従順な犬を飼っているのに対して、パワーは猫なのだ。

91話でパワーはデンジのことを友達であると明言し、血を与えて死ぬ。この血を力に換えてデンジはマキマを倒す。大切な友人の自己犠牲と、マキマの支配構造の看破。この二つがあったからこそ、デンジはマキマを倒せたのである。

母性の発展

デンジは母性の萌芽を宿した少年である。だから衰えた犬であるポチタを保護するし、一般人のことも助ける。また何でも受け入れることの表象として、何でもよく食べる。サムライソードがまずいと言い切るラーメンも、彼にとってはおいしいのだ。たとえ悪魔でも、友達になれるならなりたいものだとも彼は言っている。

デンジはマキマとの最終決戦において、糞映画がなくなるであろうマキマの世界は受け入れられないと言う。デンジにとって、弱い存在、唾棄すべき存在を殺すことは、赦されないことなのだ。彼はそのような微小な存在も手のひらにすくい上げたいと願う。それは「抱きしめる」という所作に表れる。デンジは脆弱な存在であるポチタをよく抱きしめていた。また、マキマとのデート時に彼が感動していたのも、映画の抱擁のシーンであることは見逃せない。

このような母性は、最終的に子供であるナユタを育成する役割に就くという形で発展を見せる。デンジはマキマの肉を食することで、悪しき母性を消化し、力に換えて、善なる母性を成長させたのだと見て取れる。

ちなみにパワーは偏食であり、野菜を嫌う。彼女は56話で野菜のことを言及して「大地の味がする」と言う。大地イコール母性と捉えると、パワーは母性が苦手なのかもしれないとも思う。

自由

デンジは復讐に執心しない。アキが死んだときデンジはひどく悲しみ、喪失感を抱きはするのだが、マキマに復讐しようという発想にはならないのである。デンジは自分の願望と他者の願望を明確に区別している。

彼は最終的にマキマの支配から脱するし、自分の願望もはっきりと自覚する。一人の少年が個人としての強い自我を確立させるのが本作の最終地点である。

寄生獣からの影響

寄生獣からの影響が認められる場面が二点ある。

29話でデンジはアキが泣いているのを知って、自分は誰が死んだら泣くのだろうかと想像をする。ポチタが死んだときは悲しかった。しかしそれ以外では誰が死んでも悲しくないだろう、すぐに立ち直るだろうと彼は考える。そこで彼はこう考える。

「心臓だけじゃなく人の心までなくなっちまったのか…?」

似たようなシーンが『寄生獣』という漫画にもある。主人公シンイチは母親に取り付いた寄生獣から攻撃を受けて死にかけるのだが、ミギーの助けによって回復する。その際にミギーは少し自分の体とシンイチの体が混ざってしまったことを言う。それでシンイチは、後に自分が薄情になっていることに気づき、頭まで乗っ取られてしまったのではないかと疑うのだ。

マキマを倒す場面も似ている。『寄生獣』でシンイチは最強の敵・後藤を倒す際に、決定打となる攻撃をミギーなしで行うのである。つまり完全に人の状態で後藤を倒したと言える。マキマをデンジが倒す場面においても、デンジはポチタの心臓を失っており、人のままやっつける。

『ルックバック』を読む

藤本タツキの漫画『ルックバック』について書く。

この漫画は登場人物と読者の間合いが遠い。すなわち読者は、前のめりの姿勢になって主人公に感情移入するという読み方ができない。我々は漫画を読んでいる間、自分が主人公になったような気持ちでいることはできず、一歩引いた姿勢を求められることになる。

そのような基調は一ページ目によって決定されている。一ページ目に主人公は一切顔を見せない。そこに描かれているのは全員他人なのだ。しかも二コマ目は魚眼レンズを使って俯瞰的に絵が描かれ、三人もの人物が収められている。これにより作品が主人公に対して突き放した態度を取っていることが鮮明になる。登場人物たちはあくまでも間接的に主人公の藤野を言及する。出てくる台詞を順によく咀嚼して解釈していくと、遠い間合いから次第に藤野へ接近していく様子がよく分かるはずだ。新聞、笑い声、絵への賞賛と来て、ようやく「藤野ちゃん」という言葉が出てくるのだ。最初の数ページで藤野の思い上がった態度が描写されることも、読者の一歩引いた姿勢を醸成させるのに一役買っている。

こうした客観的なまなざしは頻出する背中の絵への我々のまなざしと一致する。藤野は我々に背を向ける。彼女はこちらに顔を向けず、ひたむきに漫画を描く。背中がフォーカスされるコマでは台詞は一切出てこないので、我々は藤野の気持ちを推し量ることしかできない。逆に言えば、その場において我々は自由に想像力の翼を伸ばすことができる。最後のコマを目撃したときに我々の心が動かされる訳は、単に物語が感動的だからだけではない。我々は実は作者の助けを借りて、自身の想像力というものを日常生活では不可能なほどに力強く羽ばたかせるから、大きな感動を味わうのである。優れた物語の作り手は自分の力だけでなく、読者の力をも利用して相手を飛翔させる。

二ページ目には四コマ漫画が出てくる。これは予言的な働きをする。この四コマは生まれ変わりということがテーマだ。ところで『ルックバック』を最後まで読むと分かるように、主人公は物語の終盤で、存在しなかった、可能性としての過去を想像する。そこには親友である、生きた京本が出てくる。この虚偽の回想が生まれ変わりを示唆していると考えると、得心がいく。想像の中で藤野は京本を助けることに成功するのだ。それが「キス」であると捉えると四コマが理解できる。

オタクか一般人か、という問いをこの漫画は大きく取り上げている。藤野はくりかえしスポーツへの道の誘惑に遭う。三ページ目で彼女はクラスメートからスポーツ選手になることを勧められている。次は絵ばかり描くようになった藤野への、友達からの辛辣な助言である。

「中学で絵描いてたらさ・・・・・・
オタクだと思われてキモがられちゃうよ・・・?」

その後も藤野は姉から空手を勧められるし、想像の中では空手を修めている。これはおそらく「絵を描くこと=オタクになること」、「スポーツをすること=一般人(非オタク)になること」という対立的な図式を意味しているのだろう。

藤野は一時的に絵をかくことを諦める。二十四ページ目で彼女は「帰りにアイスを食べよう」と友達を誘う。友達とよりを戻し、彼女は楽しそうに帰り道を歩く。さらに姉と一緒に空手教室にも出るし、家族と共にテレビを見るなどする。つまりここでは、絵を描くこと=オタクになることは孤独を選ぶことであり、そうならないことは他者と仲良く過ごせるということを意味しているのだ。藤本タツキにとって、オタクになることは修羅の道を歩むことなのである。

しかしそんな修羅の道にも理解者があらわれる。京本が出てきて、藤野の漫画が備えている独自の魅力を見抜き、賞賛するのだ。そこで二人はタッグを組んで漫画道を邁進する。それはじつに輝かしい青春の記録だ。漫画を描く苦労も、賞金で遊ぶことも、二人にとっては全ての日々のあらゆる瞬間がきらめいて見える。

成人して二人は袂を分かつ。京本も成長し、独立した、藤野とは別の形の夢を持つのである。そのようにして漫画を描くことは本物の孤独を藤野に要求するようになる。だがそれさえも後に待つ試練と比較すれば大したものではなかった。京本が不幸な事件で亡くなるのだ。藤野は激しく落ち込み、混乱し、漫画の連載を休止してしまう。彼女は京本が死んだ遠因は自分にあるのではないかとすら考える。

それでも藤野の精神は最後には復活する。なぜなら自分の漫画が京本に力を与えていたこともまた事実だったからだ。

あったかもしれない過去の想像の中で、藤野は空手を修めている。しかも漫画も描く。つまり彼女はそこでは二つの道を極めた輝かしい存在というわけである。しかしそれはもちろん、都合のいい幻想でしかない。実際には我々は一つの道しか選べないのだという藤本タツキの諦観が、そこには垣間見える。

この作品の柱はそのような厳しい倫理観である。漫画を描くことは世間一般の理解を得難い。自ら進んで孤独を選ばない限り、優れた作品を描くことはできない。それが道を極めるということであり、真に他者の心に寄与する物語を描くことに他ならないという主張が、『ルックバック』には込められている。そのような主張は、他でもないこの作品が優れているという事実によって裏付けられているから、読者は納得する。

ところで、なぜ主人公たちは男性ではなく女性なのであろうか。これは友情物語であるから、親友役の京本が同性であるのには納得がいく。とすると、藤野が女性であることが疑問になる。『ルックバック』を実際に読むと、本能は彼女が女性であることを納得するのだが、僕は意識の上ではその論理がよく分からないままである。

『チェンソーマン』を読んで思ったこと

藤本タツキの漫画『チェンソーマン』を読んだ。実に面白かった。

内容は、とても文学的な物語だった。エンタメ色は薄い。画風もキャラクターデザインも物語も全然キャッチーではなかった。それでも物語の文学的な魅力が素晴らしかったので、僕はノックアウトされてしまった。これは今後の漫画の歴史の中で一つの指標として機能する作品になるだろうな、と思った。漫画家を目指す人はみな『チェンソーマン』を読んで感銘を受け、分析し、面白い漫画を描くにはどうすればいいのかを考え、学んでいくのだろう。

ところで僕はこの漫画を読んでつくづく思った。今の小説って本当につまらないんだな、と。僕は子供の頃は漫画もライトノベルもたくさん読んでいた。大人になった今でも漫画はそこそこ読む。でもライトノベルは一切読まない。というか新しい小説は、村上春樹の作品以外はまったく読まない。ミステリーもSFもエンタメも読まない。そしてそれは、今の小説がつまらないということを示しているのだと思っている。

なぜなら、僕は自分の感性と直観を大いに信じているからだ。世の中にこれほど優れたセンサーはないと信じ切っている。そしてそんなセンサーがまったく反応しないということは、小説がつまらないということを意味しているに違いないと思うのだ。本当に寸毫も興味を覚えないのである。

一昔前までは多くの人がこう信じていたはずだ。漫画やアニメはエンタメにおいては優れているかもしれない。だが文学という面では小説の方がずっと格上である、と。

しかしその図式も今や崩れた。もはや文学においても漫画やアニメの方が小説より優れている。これが分からない人は時代についていけていないのだ。

さて、そんな僕だが、実は小説が好きである。だからここ五~六年はずっと小説の古典を読んでいる。古典以外は読む必要がないと割り切っているのだ。今の小説は本当につまらないし、それを読んでいる人も書く人も実につまらない人物だと思う。これからの若者は、文学を作りたいなら漫画家やアニメの監督を目指した方がいいだろう。

『さよなら絵梨』を読む

藤本タツキの漫画『さよなら絵梨』を読んだ。それについて書く。

映画という芸術分野は、何が嘘か何が本当かというテーマについて深い興味を抱いているものだ。それは例えばタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が史実と異なる結末を描いたり、あるいは『シン・エヴァンゲリオン』が作画をあえて崩壊させて、実写の映像を用いたりするところなどに表れているように思う。

『さよなら絵梨』も、漫画ではあるが、そうした系譜に属する作品である。絵梨は主人公の最初の映画を評して、こう言う。「どこまでが事実か創作かわからない所も私には良い混乱だった」。

この作品は二重の意味で分かりにくい。どこまでが作品内の事実なのか虚構なのかが分からないために混乱させられるということに加えて、ストーリーも実は難解である。最後の爆発のシーンをどう解釈していいか分からないという読者がネットにはあふれている。

『さよなら絵梨』のストーリーは、読者をだましに来ている。絵梨のドキュメンタリーを撮る場面は、いかにも若者の青春らしくすべてが煌めいており、絵梨の最期もじつに感動的である。ふつうは絵梨が「みんなをブチ泣かして」と言う見開きの箇所でぐっと来るだろう。僕もかなりノックアウトされた。しかし本当は、こうした流れすべてが読者に仕掛けられた罠である。

よくよく反省してみると母親を撮るときも絵梨を撮るときも、主人公の優太がやっているのはただ相手の望みに従っているだけのことである。美しく人の記憶に残りたいという気持ちがそれだ。そこに優太の意思と呼べるものは存在しない。優太が監督しているにもかかわらず、彼の「こういう映画を作りたい」という意思はどこにもないのだ。結局のところ、彼は絵梨の撮影を通して、自身の成長というものができなかった。だから絵梨のドキュメンタリーを完成させて上映した後も、心からの満足を得られず、延々と再編集を続けるはめになってしまったのである。物語が続くのには理由がある。

この作品は二つの章に分けて考えることができる。終盤に絵梨が再び現れて、「この頃より随分老けたね」と主人公に声をかけるところが、章が切り替わるポイントである。ここから作品の視点が主人公のカメラでなくなる。だから優太の顔が頻繁にフレームインしてくる。また主人公と絵梨の対話の内容が、作品内の物語についての話というよりは、明らかにメタ的な内容に踏み込んでくる。

絵梨は言う。

見る度に貴方に会える…
私が何度貴方を忘れても何度でもまた思い出す
それって素敵な事じゃない?

これは映画というもの自体についての言及だろう。優れた映画は時代を越えて引き継がれていき、何度でも新しい人々に深い感動をもたらす。そういうことをここでは言っている。一ページ一コマで見開きを使って表現されているので、相当な力点が置かれていることが伝わってくる箇所だ。ここで作品が終わっても良さそうなものである。

だがこの場面もまた最後の反転を呼び寄せるための準備に過ぎない。絵梨は自身のドキュメンタリーを至高の価値として強調するが、ここでようやく主人公は自分のしてきた過ちに気がつく。絵梨はこう言う。「見る度に貴方に会える」。だがじつはそのドキュメンタリーにはほとんど自分は映っていないのだ。彼は絵梨のセリフをヒントにして次の段階へ歩を進める。

それが最後の見開きの爆破シーンである。ここに来てついに優太は「自分の意志」を表現することに成功する。相手の望みではなく、自分の望みに沿うことを遂げるのである。この場面により漫画は一気にシリアスな雰囲気から解き放たれ、ギャグ漫画的になる。それもまた優太による作品の作り替えだと捉えられる。そして彼は自死の念を振り払い、生きようと思う。何だか令和版の『金閣寺』のような話だな、という気がしなくもない。

以上の議論をもとにすると、最初のドキュメンタリーの爆破シーンは母親からの逃げであり、最後の爆破シーンは成長を遂げた男性の、自覚的な突き放しであると理解できる。

この作品は主人公の母親が強く、父親が弱い。絵梨もけっきょくは第二の母親に過ぎない。母性は、良く言えば温かくこちらを包み込んでくるもの、悪く言えば絡みついて内部に踏み入ってくるような執拗さがある。それは頑固な父性と違って、真正面からこちらにぶつかってこようとしないため、主人公は反抗というものができない。今自分の考えていることが、どこからが母親(またはヒロイン)の考えていることで、どこからが自分の考えていることなのかの分別ができないのだ。したがってそれを突き放そうとしたら、その力はおのずと自己破壊的な影を帯びざるを得ない。つまり、それが爆発ということなのである。

『ゲンセンカン主人』を読む

つげ義春の短編漫画『ゲンセンカン主人』について書く。

この作品の物語にわかりやすい意味や論理といったものは存在しない。ともかくラストのコマの衝撃がすべてである。これはただ読者の心理にショックを与えることだけを狙いとして制作された漫画だと言っていい。

この作品の核はドッペルゲンガーである。出会ってはいけない二者、すなわち本物とそのドッペルゲンガーが邂逅してしまうという出来事が中心にあり、他の出来事はいずれもそれを補強するために配置されているに過ぎない。

解説に入る前に確認しておきたいのは、このストーリーは王道ではなく、奇妙なものだ、ということだ。目標が正ではなく負なのである。

このことを念頭に入れて諸要素を見ていくと、納得がいくことが多い。たとえば、ドッペルゲンガーはラストのコマ以外ではいずれも黒く塗りつぶされている。彼は白の反対物として黒なのである。本物の方はほとんどのコマにおいてちゃんと顔や姿が描かれているので、彼は白であり、その逆としてドッペルゲンガーが黒であると解釈できる。我々は鏡に映ると左右が反転するが、ドッペルゲンガーの場合は白黒が反転していると考えられるのである。これも正の方向性ではなく、負というものに向かっていく作品の性質に合致している。

また登場人物のほとんどが老人であり、駄菓子屋の客として遊んでいたり、湯治をしていたりするというのも同じことである。日の当たる正常な世界を若い人たちで構成された社会だととらえると、ここでは影の世界、すなわち老人が多数であるような村が作品の舞台になっているととらえられる。これもまた負の方向性である。駄菓子屋の店員が「年寄りは子供と同じですからね」と言ってるのは読者の印象に残る。作者は自覚的に舞台設定にとりくんでいるということが、この台詞からうかがわれるのである。

前世が鏡であると従業員が言う場面は、ドッペルゲンガーの存在に婉曲的につながっている。

回想シーンの中で、男は宿屋の女将と結合する。これもまた何もかもが正常の流れと反転している。まともに会話ができないということが女将から人格というものを奪っており、風呂場でのいきさつから言って、二人は肉欲だけで結合していると考えられるのだが、それがあるべき男女の結婚の仕方、すなわち人格を尊重して愛によって結合するという在り方から大きく逸脱しているので、二人の結合は負の領域の出来事だととらえられるのである。男がしょぼくれた顔をしており、これといって強い人間に見えない描かれ方をしているのも見逃せない。彼は女将と結婚することによって温泉宿の主人となる。いわば成り上がるのである。これは典型的な男尊女卑の価値観に沿っていない。強い男と弱い女という在り方とは逆を示しているのだ。

この間違った男女の結合は、本物とドッペルゲンガーの邂逅という出来事とよく似ている。本物とドッペルゲンガーの邂逅というのも、また一種の結合である。しかしそれはあるべきではない、「そんなことをしたら、えらいことになる」結合なのだ。こうして考えていくと、『ゲンセカン主人』は優れた入れ子構造になっていることも理解されてくる。回想シーンでは、男女が間違った形で結合する。現在の時制においては、本物とドッペルゲンガーが、あってはならない結合をしようとするのだ。この二重の効果によってラストの衝撃の効果は高まる。

『BECK』を読む

ハロルド作石の漫画『BECK』について書く。

『BECK』の中心的なテーマは、正と負の融和である。すなわち、うらぶれた物や汚い物、罪や影といった物と、きれいな物との融和である。それが細かい描写から小さなエピソード、物語の根幹にまでよく表されているので、『BECK』は優れた芸術作品として完成されていると僕は思った。

描写としては、例えば犬の糞や野外ライブの即席トイレや、ゴキブリといったものを何度も克明に描いている点が挙げられる。こうした描写の延長として、野外ライブのゴミがある。これは主人公たちの印象的な夢に出てくるだけでなく、バンドがブレイクする時のアルバムのジャケット写真にもなっているので、物語と深い所で結びついた絵であることが分かると思う。

エピソードとしては、壊れたSGの修復や、死者のエディが作ったワンフレーズを引き取って作曲し、完成させる所などがある。放っておけば捨てられる物をわざわざ拾い上げて直す。するとそれがバンドの強力な武器として機能するのだ。ブレイク時にバンドのメンバーが誰もリタイアしない所などもテーマとの関連がある。斉藤さんのような、一見いいところのない中年男性が恋愛を成就させる点なども、みすぼらしい物を見逃さずに拾い上げる作品の意図にかなっている。

こうした方向性の果てにある話が、終盤におけるレオン・サイクスとの和解である。彼は現世の欲と罪に染まりきった人物であるから、融和すべき反対物の極限に位置する存在だと言うことができる。しかし彼は心のどこかで音楽の持つ深い力を信じている人物でもある。コユキはそれを見抜いて、完成させたDEVIL'S WAYを聴かせる。すると彼はバンドの味方になって、アヴァロン・フェスティバルというライブを締めくくるトリとしてBECKを出演させるのだ。

レオン・サイクスはその翌朝、心を開いた証左として、犬のベックの首輪を渡し(すなわち譲り)、その成り立ちをコユキに聞かせる。死にかけた三匹の犬を医者に預けて治療させ、二匹の犬として復活させたことだ。バラバラになったものを結合させて新たな生命を与えること。これはまさに作品の中心的なテーマと合致した挿話だ。ただしそこには切実な痛みもたしかに含まれている。犠牲になった一匹の喪失である。影との融和は、痛みなしには達成されない。そこに作者の慧眼と世界の真理が見て取れるのであり、我々は深い感動と納得を覚えるのである。

『BECK』のもう一つの特徴は父親的なものの扱い方だ。主人公の父親はすでに亡くなっており、遺影としてわずかに登場するだけである。しかし父親的なものは数多く出てくる。バンドの前に立ちはだかるレオン・サイクスや蘭がそうだ。彼らは物語の前半においては圧倒的な力の持ち主として登場し、バンドにとって大きな壁として機能する。ただし後半に入ると様相が変わってくる。

レオン・サイクスもまた成功のために苦労し、傷つきながら戦っていることが描かれるのだ。レオン・サイクスにとって打倒すべき父親的な人物としてビクター・スレイターが登場し、彼に苦しめられるところがきっちりと尺をとって描かれる。結局レオン・サイクスは逆転して、暴力を用いて彼を倒す。つまりここではレオン・サイクスが相対化されていると言っていい。彼もまた主人公たち同様に父という存在物と戦い、成長していかなければ生き抜いていけないことが示唆されているのだ。このことは、彼が心に傷を抱きながら生きていることと結びついている。その傷は、音楽の持つ救済の力を信じていることと表裏一体である。すなわち愛犬が敵対勢力に傷つけられ、喪失したことだ。その傷ついた心は、コユキがDEVIL'S WAYを聴かせると開かれ、告白される。そしてレオン・サイクスはもはや敵対することをやめて去っていくのだ。こうしたストーリーの流れは一体何を意味しているのだろうか。

上記から分かることは、『BECK』における父親とは、剛直な力によって倒される存在ではなく、主人公が深い知恵を示したときにのみ倒される、というよりも、自壊して引き下がっていく存在なのだ、ということである。その知恵は、父親の持つ心の傷と関連があり、それを救済するだけでなく、より高い次元に引き上げていくものである。

蘭もまた同様の方法で倒される。蘭が若い頃に憧れていたイギリスのオーディエンスたちに主人公のバンドが受け入れられた事実や、晋作という敬慕していたバンドマンが持っていたSGをコユキから譲られることで、自発的に負けを受け入れ、引き下がっていくのである。

繰り返しになるが、放っておけば捨てられる物をわざわざ拾い上げて直したという所が、二つの父親の倒し方に共通している点である。それこそがこの作品における優れた知恵であり、魂の力なのだ。世界には多くの汚い物があり、傷があり、罪がある。放置されたそれらは、残しておけば暴走し、闇を食らって成長し、やがては人々の心に害をなすだろう。そのような認識のもとに、我々はたとえ自分を傷つけることになろうとも、彼らを抱きしめ、受け入れていかなければならない。彼らをより高い次元に連れていき、優れた美と真理を達成しなければならない。このような調和の方向に、本物の音楽は存在するのである。

物語におけるエディプスコンプレックスについて

漫画『推しの子』を読んだ。面白かった。母親を溺愛する男の子が、母親を殺した主犯(と思われる)父親を探し出して復讐を企むという筋書きである。これは「父親を殺して母親を娶る」というエディプス王の話型を変形したものだと僕は受け取った。

映画・エヴァンゲリオン新劇場版においても二作目のラストで、このようなエディプスコンプレックスの型が出てくる。主人公が父親に逆らって、母の面影を宿すヒロインを助けるのだ。

思えばバックトゥザ・フューチャーの物語もエディプスコンプレックスの変形とみなすことができる。ただしこちらの場合は父親が最初から弱く、放っておくと自分が母親と結合してしまうが、それを避けて父親とくっつけるために主人公が奮闘するという展開になっており、言わば本来の形を転倒したものになっている。エディプスコンプレックスのパロディをやっているという訳だ。それがコメディとしての雰囲気と上手く結合しており、そこにバックトゥザ・フューチャーの成功の要因があると考えられる。

ところで劇のエディプス王では、型を達成してしまった主人公は破滅に追いやられる。この事から、エディプスコンプレックスの型は物語を牽引する大きな力を持っていながら、その余りにもストレートな達成には、物語を悲劇的な方向に導く力が備わっているのではないかという推測が成り立つ。

少なくともエヴァンゲリオン新劇場版についてはこの仮説は成立する。二作目のラストでエディプスコンプレックスの型を達成した主人公は、次のQという作品において恐ろしい下降を経験するからだ。しかし主人公・シンジは最終作で再生し、再び父親と相対する。その時、彼は自身の内面に母性を宿している。したがって彼はもう母親を「奪う」必要がない。このような方法によってシンジは父親との戦いを制することに成功する。

バックトゥザ・フューチャーにおいては、型は転倒している。放っておくと主人公が消滅する危機なのだが、目的を達成すると平和が訪れるのである。このことも仮説の成立を支援する。

こう考えると、エディプスコンプレックスという強力な武器は、それをどう変形して使うか。そして達成による破滅をどう乗り越えていくかに大きなポイントがあると思われるのである。僕は今後も引き続き、この型については考えていきたいと思っている。

『ドラゴンボール』の物語を考える2

前回の記事でピッコロ大魔王編を考察した。次はラディッツの襲来からフリーザとの闘いで終わるサイヤ人編について考える。

サイヤ人編では悟空の罪というものが強調される。このことは悟空が大人になったことと深い関連がある。一般的に言って大人になることは多くの欲望を抱え込むことを意味し、それは罪というものと切っても切れない関係にあるからだ。ただし物語の制約上、悟空は中身が空っぽの、無欲な人間として描かれなければならないので、間接的な手法が取られた。

説明すると、悟空は実はサイヤ人という戦闘民族の一人なのだが、そのサイヤ人たちのやることとは、目を付けた惑星の先住民を殺戮して、その星を金持ちに売ることである。つまりそういう残虐な行いをする一派と血のつながりがあるという婉曲的な手法で、悟空の罪が語られることになる。

さらにベジータとの闘いの最中に、悟空は己の罪を自覚する。それはサイヤ人の血、つまり大猿に変身可能であることと深い関連があるのだ。

「そ…そうか……やっとわかったぞ…。
な…なんてことだ……。じ、じいちゃんをふみつぶして殺したのも… ぶ…武道会場にあらわれて会場をぶっこわした化物…ってのもこ…このオラだったのか………!!」

こうしたサイヤ人としての罪はフリーザを倒すことによって贖われる。フリーザこそがサイヤ人を操っていた親玉だからである。戦いの最中に次のような会話が交わされるのは注目に値する。

フリーザ「えらそうなことをいいやがって……。きさまらサイヤ人は罪のない者を殺さなかったとでもいうのか?」
悟空「だから滅びた……」

フリーザを倒すのに悟空の怒りが必要であるというのも見逃せない。実際、ピッコロ大魔王と戦う時でさえ悟空は腹の底からの怒りというものを見せていない。正確に言うと勇ましく怒りはするのだが、それはどこまでも、戦いのために必要なエネルギーを発揮しているだけに過ぎないという印象なのである。フリーザとの決闘において、二十数巻に及ぶ物語の中で初めて悟空は心からの怒りを見せるのだ。ところで、怒りとは罪である。物語上は、悟空は大人になり罪と近接することによって、ついに真の怒りを獲得したのだと受け取れる。

ちなみにラディッツの襲来前に孫御飯という子供が生まれるのは、悟空が大人になってもう罪というものから逃れられないことになったから、純粋性を担う役目として彼が現れたのだと受け取ることが出来る。鳥山明はキャラクターの配置が上手い。孫御飯がいなければセル編の話の展開は難しくなったろう。

次はセル編だ。セル編についてはすでに詳細を解説したのでここで同じことを繰り返すことはしないが、これは簡単に言うと悟空の罪というものが清算される物語である。

前回の記事で言ったことだが、漫画『ドラゴンボール』の中心は、ドラゴンボールという宝と孫悟空の純粋性の対立構造である。この二者の緊張関係が悪を引き寄せる。このことは鳥山明も自覚し、次のように明言している。

「みんな悟空だ。あの世からしゃべってんだけどちょっときいてくれ。
前にブルマからちょっといわれたことがあんだ。このオラが悪いやつらを引きつけてるんだってな。…考えてみっとたしかにそうだろ。
オラがいねえほうが地球は平和だって気がすんだ。界王さまもそこんとこは認めてる……」

孫悟空は息子に戦士の地位を譲って引退し、死人になるが、彼は非常に明るい。人を元気づけるためのやせ我慢ではなく、根っから明るいのである。それは自身の罪悪感を解消できたからだと受け取ることができる。

『ドラゴンボール』の物語を考える

漫画『ドラゴンボール』の中心にあるものは、あらゆる願いを叶えるドラゴンボールという宝と、主人公の孫悟空である。彼の特徴は無欲なことだ。

「でもオラはべつに願いごとなんてねえから このじいちゃんの形見の四星球さえ手にはいりゃいいんだ!」
(単行本8巻)

孫悟空は謙虚な訳ではないし、とりわけ善人であるわけでもない。ただ欲というものを生成する、誰にでも生まれつき備わっている体の器官が抜け落ちてしまっていると言った方が、正しいニュアンスに近いだろう。

ドラゴンボールは願いを叶える。しかし主人公には願いを叶える気がない。このような皮肉な対立構造がこの漫画の中心にあって、ドラマを駆動している。

どういうことか。もしも主人公に人並みの欲望があり、それをドラゴンボールによって叶えてもらうとしたら、両者の間に引力が働いてくっつき合うのだが、主人公は不自然なまでに無欲なので両者はくっつき合わず、距離が生まれてしまう。その何もない空間が言わば真空のように働いて、何かを引き寄せてしまうのである。次は35巻で、セルを打倒した後に悟空があの世から現世の仲間たちに語りかける時のセリフである。

「みんな悟空だ。あの世からしゃべってんだけどちょっときいてくれ。
前にブルマからちょっといわれたことがあんだ。このオラが悪いやつらを引きつけてるんだってな。…考えてみっとたしかにそうだろ。
オラがいねえほうが地球は平和だって気がすんだ。界王さまもそこんとこは認めてる……」

つまり引き寄せるのは邪心を持った者だ。この物語の中で繰り返されるパターンとして、次のようなものがある。すなわち、考えの足りない小物でコミカルな悪が、より強大でシリアスな悪を呼び出し、制御できずに滅び去ってしまい、結果として大きな悪が敵として主人公たちの前に立ちふさがるというパターンである。

具体的には、レッドリボン軍の総帥がブラックに取って代わられ、ピラフ一味がピッコロ大魔王を解放し、ドクター・ゲロがセルを産み出し、バビディが魔人ブウを呼び出す、という流れである。

邪心という問題はくりかえし『ドラゴンボール』の中で持ち上がる。神様は、神様になるために自分の中の悪い心を自身から引き離して外に放った。しかしそれが強大な力を持って、ピッコロ大魔王となり、地上に災いをもたらしてしまった。ラディッツの襲来から始まるサイヤ人編では亀仙人が悟空の赤ん坊の頃を語る。悟空は最初気性が荒く孫悟飯になつかなかったのだが、頭を強打した結果おとなしくなった。魔人ブウは自身の中の邪悪を分離させるが、それは本体よりも強い力を持っているのであり、悟空たちは苦戦させられる。

これらのエピソードの中でとりわけ重要と思われるのは、ピッコロ大魔王編である。ドラゴンボールを造り出したのは神様だからだ。そのような偉大な力を持った神様でさえ、邪心からは逃れられないという問題意識を作者の鳥山明は抱いている。孫悟空は神様から生まれ出た大きな悪を打ち倒す役目に就く。これによって神様は自殺という問題から逃れられ、ドラゴンボールの存続は支えられるのである。そればかりか、悪であるピッコロはその後により強大な悪であるラディッツを前にして、戦士たちの味方につくことになる。

ここには次のような倫理的問題があると解釈できる。我々人間はあらゆる願いが叶う宝がどこかに存在していて欲しいという、素朴で幼児的な願望を持っている。この世が自分の思い通りになるという、単純な、しかし存在の根本を支えている期待だ。それがなければ誰も絶望からは立ち上がれないし、人生を肯定することもできない。それは赤ん坊が母親に抱く思いとどこか似ている。

しかしもし自分に邪心があれば、そのような宝を正しく運用することは不可能である。邪心と願いが結びつけば、それは大きな悪を呼び出して世界を滅ぼしてしまう。つまり邪心を持つことは願いの否定に繋がり、ドラゴンボールの否定に繋がり、この世のあらゆる希望の否定に繋がってしまうのである。もし自分に邪心があれば、それを封じるためには自殺するしかないかもしれない。これはとても悲しい卓見である。

そこで孫悟空が我々人類を代表して、そのような倫理的葛藤を解消する。命を懸けて戦い、苦しみ、悪を打倒するのである。彼は邪心を持たないので、正しくドラゴンボールを運用できる。こうした物語の帰着によってドラゴンボールの倫理的価値は守られる。我々の希望は存続するのである。

『HUNTER×HUNTER』を読む

今回は漫画『HUNTER×HUNTER』について、思いつくままに書いてみることにする。まとまりのない記事になっている。

ルールを守る

ゴンとヒソカはよく似ている。彼らはルールに対する執着心があり、それをよく守る。例えばゴンもヒソカもハンター試験に参加し、合格した。彼らは天空闘技場でもルール内で戦って勝ち負けを競っていたし、グリードアイランドにおいてもそのルール内で暮らし、クエストの課題であるドッジボールに参加して勝利を収めている。ルールを守り、その中で勝ちを目指すのが彼らの在り方なのである。

対して、そうした在り方に反する存在として描かれているのが幻影旅団である。彼らはオークションというゲームにまっとうな形で参加するのを拒み、盗むことをする。グリードアイランドでもゲーム機から入るのをやめて、現実サイドから島への侵入を試みている。もっともこちらはルール違反ということで咎められ、失敗しているが。

さて、そんな共通点のあるゴンとヒソカだが、しかし一点だけ大きな差異がある。それは生命に対する倫理観だ。ゴンは人の命を奪うのはいかなる時でもよくないと考えている。これはおそらくドラゴンボールの主人公から作者が引き継いだものだろう。ヒソカは完全に逆で、命のやり取りこそもっとも面白いゲームなのだから、そこは自由にやらせるべきだと考えている。一見ヒソカがルール破りの非常識な人間だと思われる理由はここにある。この点を除いてヒソカの行動を振り返ってみると、むしろ彼はルールを守る側に属していると分かるはずである。こうしたゴンとヒソカの差異がもっともよく表れているのが天空闘技場における最後のシーンだ。

次はルールなしの真剣勝負(せかい)で戦ろう。♠

命をかけて♠

公平性と個の自由

もう一つゴンのゲームに対する態度について重要なのが、フェアネスを重視するということだ。個の自由を守る、と考えてもいいかもしれない。ゴンはグリードアイランド編では、ゲンスルーたちの提唱する組織づくりによるカードの独占、ゲームクリアーを否定している。彼らのやっていることはルールの範囲内であり、何一つ卑怯な点はないのだが、あまりにも圧倒的で効率的な攻略方法というものをゴンは認めないのである。お互いに勝ち目のある戦いというものにのみ彼は価値を認めている。それはたとえばハンター試験の最終試験における、ハンゾウとのやり取りにも表れているだろう。ゴンは圧倒的な力を持つハンゾウに対して、自分が納得のできる、しかも勝ち目のあるルールで戦うように提案するのである。結局ハンゾウはそれを馬鹿らしいと一蹴して否定するのだが、このシーンはハンターハンターの本質がよく描かれている場面だと思われる。

グリードアイランド編でもう一つ見逃せないのは、ゴンたちがゲンスルー一味を倒した後に彼らを治療することである。僕はこれを、作者はゲンスルーを完全な悪だとは捉えていないということの証左ではないかと思っている。結局ゲンスルーのやったことの中で本作品の倫理に抵触しているのは、殺人のみなのでないか。ゲームに勝つために相手をだますことは否定されていないと思われる。というのも、まずゲーム自体が仲間割れやだまし討ちを誘発するような作りになっているし(カード化限度枚数という仕組みがそれだ)、だまし討ちを卑怯と言い始めると、ゴンのやったトラップによるゲンスルー攻略もまた否定されてしまうからだ。嘘や裏切りは戦略のうちなのである。

ゲームを通した相互理解について

最後にキメラアント編について述べる。この章の中で重要なエピソードは、ゴンによるネフェルピトー殺害と、キメラアントの王メルエムとコムギの件である。

ゴンは敵であるネフェルピトーを倒しているが、その際自分が今まで頑なに守ってきた「必要がない限りは殺さない」というルールを破って、圧倒的な力でピトーを殺害してしまう。その後にゴンが倒れてしまう点を考慮すると、このエピソードはかなり否定的に描かれていると受け取ってよい。ゴンは怒りの余り我を忘れて、ゲームのルールを守るという作中のもっとも気高い倫理を否定してしまったのである。その罰として彼は心身に大きなダメージを受け、念能力も喪失してしまうととらえると、つじつまが合う。仲間を殺されて我を忘れるほど怒るというのは、ドラゴンボールにおいては肯定的に描かれているのに対し、HxHでは否定的に描かれるのである。

逆にメルエムはルールというものをまったく考慮しない単なる暴力をふるっていた段階から、軍儀(ぐんぎ)のルールを通して種のことなる人間と固い絆を結ぶ段階にまで成長してみせた。本作品の倫理観に照らし合わせて考えると、個として勝利を遂げたのはゴンではなくメルエムの方なのである。ルールを尊重したうえで、どこまでも真剣にゲームに打ち込み競争してみせること。それこそが立場の違う者同士の真の相互理解に繋がるのである。

もちろん最終的には種としてのキメラアントは否定され、人間によって討伐される。もう一つの倫理である生命を尊ぶという点にキメラアントが抵触してしまった以上、そこは仕方がないことなのである。

種のレベルではともかく、個としては敵の方が勝ちを収めてエンディングを迎えるというのは、少年ジャンプの漫画としてはかなりアナーキーであると言っていいだろう。