『ドラゴンボール』の物語を考える2

前回の記事でピッコロ大魔王編を考察した。次はラディッツの襲来からフリーザとの闘いで終わるサイヤ人編について考える。

サイヤ人編では悟空の罪というものが強調される。このことは悟空が大人になったことと深い関連がある。一般的に言って大人になることは多くの欲望を抱え込むことを意味し、それは罪というものと切っても切れない関係にあるからだ。ただし物語の制約上、悟空は中身が空っぽの、無欲な人間として描かれなければならないので、間接的な手法が取られた。

説明すると、悟空は実はサイヤ人という戦闘民族の一人なのだが、そのサイヤ人たちのやることとは、目を付けた惑星の先住民を殺戮して、その星を金持ちに売ることである。つまりそういう残虐な行いをする一派と血のつながりがあるという婉曲的な手法で、悟空の罪が語られることになる。

さらにベジータとの闘いの最中に、悟空は己の罪を自覚する。それはサイヤ人の血、つまり大猿に変身可能であることと深い関連があるのだ。

「そ…そうか……やっとわかったぞ…。
な…なんてことだ……。じ、じいちゃんをふみつぶして殺したのも… ぶ…武道会場にあらわれて会場をぶっこわした化物…ってのもこ…このオラだったのか………!!」

こうしたサイヤ人としての罪はフリーザを倒すことによって贖われる。フリーザこそがサイヤ人を操っていた親玉だからである。戦いの最中に次のような会話が交わされるのは注目に値する。

フリーザ「えらそうなことをいいやがって……。きさまらサイヤ人は罪のない者を殺さなかったとでもいうのか?」
悟空「だから滅びた……」

フリーザを倒すのに悟空の怒りが必要であるというのも見逃せない。実際、ピッコロ大魔王と戦う時でさえ悟空は腹の底からの怒りというものを見せていない。正確に言うと勇ましく怒りはするのだが、それはどこまでも、戦いのために必要なエネルギーを発揮しているだけに過ぎないという印象なのである。フリーザとの決闘において、二十数巻に及ぶ物語の中で初めて悟空は心からの怒りを見せるのだ。ところで、怒りとは罪である。物語上は、悟空は大人になり罪と近接することによって、ついに真の怒りを獲得したのだと受け取れる。

ちなみにラディッツの襲来前に孫御飯という子供が生まれるのは、悟空が大人になってもう罪というものから逃れられないことになったから、純粋性を担う役目として彼が現れたのだと受け取ることが出来る。鳥山明はキャラクターの配置が上手い。孫御飯がいなければセル編の話の展開は難しくなったろう。

次はセル編だ。セル編についてはすでに詳細を解説したのでここで同じことを繰り返すことはしないが、これは簡単に言うと悟空の罪というものが清算される物語である。

前回の記事で言ったことだが、漫画『ドラゴンボール』の中心は、ドラゴンボールという宝と孫悟空の純粋性の対立構造である。この二者の緊張関係が悪を引き寄せる。このことは鳥山明も自覚し、次のように明言している。

「みんな悟空だ。あの世からしゃべってんだけどちょっときいてくれ。
前にブルマからちょっといわれたことがあんだ。このオラが悪いやつらを引きつけてるんだってな。…考えてみっとたしかにそうだろ。
オラがいねえほうが地球は平和だって気がすんだ。界王さまもそこんとこは認めてる……」

孫悟空は息子に戦士の地位を譲って引退し、死人になるが、彼は非常に明るい。人を元気づけるためのやせ我慢ではなく、根っから明るいのである。それは自身の罪悪感を解消できたからだと受け取ることができる。