『ドラゴンボール』の物語を考える

漫画『ドラゴンボール』の中心にあるものは、あらゆる願いを叶えるドラゴンボールという宝と、主人公の孫悟空である。彼の特徴は無欲なことだ。

「でもオラはべつに願いごとなんてねえから このじいちゃんの形見の四星球さえ手にはいりゃいいんだ!」
(単行本8巻)

孫悟空は謙虚な訳ではないし、とりわけ善人であるわけでもない。ただ欲というものを生成する、誰にでも生まれつき備わっている体の器官が抜け落ちてしまっていると言った方が、正しいニュアンスに近いだろう。

ドラゴンボールは願いを叶える。しかし主人公には願いを叶える気がない。このような皮肉な対立構造がこの漫画の中心にあって、ドラマを駆動している。

どういうことか。もしも主人公に人並みの欲望があり、それをドラゴンボールによって叶えてもらうとしたら、両者の間に引力が働いてくっつき合うのだが、主人公は不自然なまでに無欲なので両者はくっつき合わず、距離が生まれてしまう。その何もない空間が言わば真空のように働いて、何かを引き寄せてしまうのである。次は35巻で、セルを打倒した後に悟空があの世から現世の仲間たちに語りかける時のセリフである。

「みんな悟空だ。あの世からしゃべってんだけどちょっときいてくれ。
前にブルマからちょっといわれたことがあんだ。このオラが悪いやつらを引きつけてるんだってな。…考えてみっとたしかにそうだろ。
オラがいねえほうが地球は平和だって気がすんだ。界王さまもそこんとこは認めてる……」

つまり引き寄せるのは邪心を持った者だ。この物語の中で繰り返されるパターンとして、次のようなものがある。すなわち、考えの足りない小物でコミカルな悪が、より強大でシリアスな悪を呼び出し、制御できずに滅び去ってしまい、結果として大きな悪が敵として主人公たちの前に立ちふさがるというパターンである。

具体的には、レッドリボン軍の総帥がブラックに取って代わられ、ピラフ一味がピッコロ大魔王を解放し、ドクター・ゲロがセルを産み出し、バビディが魔人ブウを呼び出す、という流れである。

邪心という問題はくりかえし『ドラゴンボール』の中で持ち上がる。神様は、神様になるために自分の中の悪い心を自身から引き離して外に放った。しかしそれが強大な力を持って、ピッコロ大魔王となり、地上に災いをもたらしてしまった。ラディッツの襲来から始まるサイヤ人編では亀仙人が悟空の赤ん坊の頃を語る。悟空は最初気性が荒く孫悟飯になつかなかったのだが、頭を強打した結果おとなしくなった。魔人ブウは自身の中の邪悪を分離させるが、それは本体よりも強い力を持っているのであり、悟空たちは苦戦させられる。

これらのエピソードの中でとりわけ重要と思われるのは、ピッコロ大魔王編である。ドラゴンボールを造り出したのは神様だからだ。そのような偉大な力を持った神様でさえ、邪心からは逃れられないという問題意識を作者の鳥山明は抱いている。孫悟空は神様から生まれ出た大きな悪を打ち倒す役目に就く。これによって神様は自殺という問題から逃れられ、ドラゴンボールの存続は支えられるのである。そればかりか、悪であるピッコロはその後により強大な悪であるラディッツを前にして、戦士たちの味方につくことになる。

ここには次のような倫理的問題があると解釈できる。我々人間はあらゆる願いが叶う宝がどこかに存在していて欲しいという、素朴で幼児的な願望を持っている。この世が自分の思い通りになるという、単純な、しかし存在の根本を支えている期待だ。それがなければ誰も絶望からは立ち上がれないし、人生を肯定することもできない。それは赤ん坊が母親に抱く思いとどこか似ている。

しかしもし自分に邪心があれば、そのような宝を正しく運用することは不可能である。邪心と願いが結びつけば、それは大きな悪を呼び出して世界を滅ぼしてしまう。つまり邪心を持つことは願いの否定に繋がり、ドラゴンボールの否定に繋がり、この世のあらゆる希望の否定に繋がってしまうのである。もし自分に邪心があれば、それを封じるためには自殺するしかないかもしれない。これはとても悲しい卓見である。

そこで孫悟空が我々人類を代表して、そのような倫理的葛藤を解消する。命を懸けて戦い、苦しみ、悪を打倒するのである。彼は邪心を持たないので、正しくドラゴンボールを運用できる。こうした物語の帰着によってドラゴンボールの倫理的価値は守られる。我々の希望は存続するのである。