『ゲンセンカン主人』を読む

つげ義春の短編漫画『ゲンセンカン主人』について書く。

この作品の物語にわかりやすい意味や論理といったものは存在しない。ともかくラストのコマの衝撃がすべてである。これはただ読者の心理にショックを与えることだけを狙いとして制作された漫画だと言っていい。

この作品の核はドッペルゲンガーである。出会ってはいけない二者、すなわち本物とそのドッペルゲンガーが邂逅してしまうという出来事が中心にあり、他の出来事はいずれもそれを補強するために配置されているに過ぎない。

解説に入る前に確認しておきたいのは、このストーリーは王道ではなく、奇妙なものだ、ということだ。目標が正ではなく負なのである。

このことを念頭に入れて諸要素を見ていくと、納得がいくことが多い。たとえば、ドッペルゲンガーはラストのコマ以外ではいずれも黒く塗りつぶされている。彼は白の反対物として黒なのである。本物の方はほとんどのコマにおいてちゃんと顔や姿が描かれているので、彼は白であり、その逆としてドッペルゲンガーが黒であると解釈できる。我々は鏡に映ると左右が反転するが、ドッペルゲンガーの場合は白黒が反転していると考えられるのである。これも正の方向性ではなく、負というものに向かっていく作品の性質に合致している。

また登場人物のほとんどが老人であり、駄菓子屋の客として遊んでいたり、湯治をしていたりするというのも同じことである。日の当たる正常な世界を若い人たちで構成された社会だととらえると、ここでは影の世界、すなわち老人が多数であるような村が作品の舞台になっているととらえられる。これもまた負の方向性である。駄菓子屋の店員が「年寄りは子供と同じですからね」と言ってるのは読者の印象に残る。作者は自覚的に舞台設定にとりくんでいるということが、この台詞からうかがわれるのである。

前世が鏡であると従業員が言う場面は、ドッペルゲンガーの存在に婉曲的につながっている。

回想シーンの中で、男は宿屋の女将と結合する。これもまた何もかもが正常の流れと反転している。まともに会話ができないということが女将から人格というものを奪っており、風呂場でのいきさつから言って、二人は肉欲だけで結合していると考えられるのだが、それがあるべき男女の結婚の仕方、すなわち人格を尊重して愛によって結合するという在り方から大きく逸脱しているので、二人の結合は負の領域の出来事だととらえられるのである。男がしょぼくれた顔をしており、これといって強い人間に見えない描かれ方をしているのも見逃せない。彼は女将と結婚することによって温泉宿の主人となる。いわば成り上がるのである。これは典型的な男尊女卑の価値観に沿っていない。強い男と弱い女という在り方とは逆を示しているのだ。

この間違った男女の結合は、本物とドッペルゲンガーの邂逅という出来事とよく似ている。本物とドッペルゲンガーの邂逅というのも、また一種の結合である。しかしそれはあるべきではない、「そんなことをしたら、えらいことになる」結合なのだ。こうして考えていくと、『ゲンセカン主人』は優れた入れ子構造になっていることも理解されてくる。回想シーンでは、男女が間違った形で結合する。現在の時制においては、本物とドッペルゲンガーが、あってはならない結合をしようとするのだ。この二重の効果によってラストの衝撃の効果は高まる。