『ルックバック』を読む

藤本タツキの漫画『ルックバック』について書く。

この漫画は登場人物と読者の間合いが遠い。すなわち読者は、前のめりの姿勢になって主人公に感情移入するという読み方ができない。我々は漫画を読んでいる間、自分が主人公になったような気持ちでいることはできず、一歩引いた姿勢を求められることになる。

そのような基調は一ページ目によって決定されている。一ページ目に主人公は一切顔を見せない。そこに描かれているのは全員他人なのだ。しかも二コマ目は魚眼レンズを使って俯瞰的に絵が描かれ、三人もの人物が収められている。これにより作品が主人公に対して突き放した態度を取っていることが鮮明になる。登場人物たちはあくまでも間接的に主人公の藤野を言及する。出てくる台詞を順によく咀嚼して解釈していくと、遠い間合いから次第に藤野へ接近していく様子がよく分かるはずだ。新聞、笑い声、絵への賞賛と来て、ようやく「藤野ちゃん」という言葉が出てくるのだ。最初の数ページで藤野の思い上がった態度が描写されることも、読者の一歩引いた姿勢を醸成させるのに一役買っている。

こうした客観的なまなざしは頻出する背中の絵への我々のまなざしと一致する。藤野は我々に背を向ける。彼女はこちらに顔を向けず、ひたむきに漫画を描く。背中がフォーカスされるコマでは台詞は一切出てこないので、我々は藤野の気持ちを推し量ることしかできない。逆に言えば、その場において我々は自由に想像力の翼を伸ばすことができる。最後のコマを目撃したときに我々の心が動かされる訳は、単に物語が感動的だからだけではない。我々は実は作者の助けを借りて、自身の想像力というものを日常生活では不可能なほどに力強く羽ばたかせるから、大きな感動を味わうのである。優れた物語の作り手は自分の力だけでなく、読者の力をも利用して相手を飛翔させる。

二ページ目には四コマ漫画が出てくる。これは予言的な働きをする。この四コマは生まれ変わりということがテーマだ。ところで『ルックバック』を最後まで読むと分かるように、主人公は物語の終盤で、存在しなかった、可能性としての過去を想像する。そこには親友である、生きた京本が出てくる。この虚偽の回想が生まれ変わりを示唆していると考えると、得心がいく。想像の中で藤野は京本を助けることに成功するのだ。それが「キス」であると捉えると四コマが理解できる。

オタクか一般人か、という問いをこの漫画は大きく取り上げている。藤野はくりかえしスポーツへの道の誘惑に遭う。三ページ目で彼女はクラスメートからスポーツ選手になることを勧められている。次は絵ばかり描くようになった藤野への、友達からの辛辣な助言である。

「中学で絵描いてたらさ・・・・・・
オタクだと思われてキモがられちゃうよ・・・?」

その後も藤野は姉から空手を勧められるし、想像の中では空手を修めている。これはおそらく「絵を描くこと=オタクになること」、「スポーツをすること=一般人(非オタク)になること」という対立的な図式を意味しているのだろう。

藤野は一時的に絵をかくことを諦める。二十四ページ目で彼女は「帰りにアイスを食べよう」と友達を誘う。友達とよりを戻し、彼女は楽しそうに帰り道を歩く。さらに姉と一緒に空手教室にも出るし、家族と共にテレビを見るなどする。つまりここでは、絵を描くこと=オタクになることは孤独を選ぶことであり、そうならないことは他者と仲良く過ごせるということを意味しているのだ。藤本タツキにとって、オタクになることは修羅の道を歩むことなのである。

しかしそんな修羅の道にも理解者があらわれる。京本が出てきて、藤野の漫画が備えている独自の魅力を見抜き、賞賛するのだ。そこで二人はタッグを組んで漫画道を邁進する。それはじつに輝かしい青春の記録だ。漫画を描く苦労も、賞金で遊ぶことも、二人にとっては全ての日々のあらゆる瞬間がきらめいて見える。

成人して二人は袂を分かつ。京本も成長し、独立した、藤野とは別の形の夢を持つのである。そのようにして漫画を描くことは本物の孤独を藤野に要求するようになる。だがそれさえも後に待つ試練と比較すれば大したものではなかった。京本が不幸な事件で亡くなるのだ。藤野は激しく落ち込み、混乱し、漫画の連載を休止してしまう。彼女は京本が死んだ遠因は自分にあるのではないかとすら考える。

それでも藤野の精神は最後には復活する。なぜなら自分の漫画が京本に力を与えていたこともまた事実だったからだ。

あったかもしれない過去の想像の中で、藤野は空手を修めている。しかも漫画も描く。つまり彼女はそこでは二つの道を極めた輝かしい存在というわけである。しかしそれはもちろん、都合のいい幻想でしかない。実際には我々は一つの道しか選べないのだという藤本タツキの諦観が、そこには垣間見える。

この作品の柱はそのような厳しい倫理観である。漫画を描くことは世間一般の理解を得難い。自ら進んで孤独を選ばない限り、優れた作品を描くことはできない。それが道を極めるということであり、真に他者の心に寄与する物語を描くことに他ならないという主張が、『ルックバック』には込められている。そのような主張は、他でもないこの作品が優れているという事実によって裏付けられているから、読者は納得する。

ところで、なぜ主人公たちは男性ではなく女性なのであろうか。これは友情物語であるから、親友役の京本が同性であるのには納得がいく。とすると、藤野が女性であることが疑問になる。『ルックバック』を実際に読むと、本能は彼女が女性であることを納得するのだが、僕は意識の上ではその論理がよく分からないままである。