『ドラゴンボール』における代替わりというテーマ

本稿では漫画『ドラゴンボール』のセル編の物語について解説する。セル編は単行本の28巻から35巻までに収録されている。

親子のヴァリエーション

セル編にはさまざまな親子の組が登場する。まず冒頭にフリーザ親子が出てくる。次いでトランクスとベジータ、人造人間20号と17・18号(前者はドクター・ゲロで、後者を造った)などが現れる。彼らはそれぞれに異なった多様な顔を読者に見せる。そしてこれら親子のヴァリエーションは、物語の最終目標である孫悟空から孫悟飯への主人公の代替わりのために用意された、布石のようなものであると捉えることができる。次にそれらのペアをすべて挙げてみよう。

  • フリーザ親 - フリーザ
  • ベジータ - トランクス
  • 人造人間20号(ゲロ) - 17・18号
  • 神様 - デンデ
  • 孫悟空 - 孫悟飯

セルは物語の形式上はゲロと別の人物だが、物語の実質という観点から見ると、ゲロと同一人物だとみなせる。セルもゲロも登場時の外見は老人のそれだ。また、敵のエネルギーを吸収することや、17・18号と敵対しているという共通項がある。したがって<ゲロ - 17・18号>の組は、<ゲロ=セル - 17・18号>の組であると捉えることができる。

孫親子とベジータ親子の対比

では、これらのペアをつぶさに見ていこう。

フリーザ親は息子であるフリーザが殺されてもまったく動揺しない。それどころか殺した相手であるトランクスに「私の息子にならないか」ともちかける始末である。このような情のなさは、理想的でない親子の例として持ち出されているのだろう。

逆に、子が親を無残にあつかうケースもある。17号・18号がゲロを殺す際、クリリンが「自分の親を殺すなんて」という旨の発言をする。(30巻 P17) いずれにせよ、どちらのペアも親子の縁というものが機能していない。

神様からデンデへの交代はさらっと描かれているが重要なことだ。これは親子とは違うが、代替わりというテーマと密接に関係している。まず神様が消えて、ドラゴンボールがなくなる。作品のタイトルにもなっているものが失われるのだから、これはかなりの大事だ。それが、セルとの最終決戦の直前になってデンデがやって来て、新しい神様として就任し、ドラゴンボールを復活させる。このエピソードは、孫悟飯が悟空の代わりに地球の平和を担う新しい戦士の立場になることを予兆している。こういう小さいエピソードをラストの前に設けておくのは優れたストーリーテリングだ。

ベジータとトランクスは常に孫親子と対照的に書かれる。トランクスはベジータに対して、親としての責任がないと責める。単行本29巻では、ゲロが放ったエネルギー波から、トランクスがブルマを救う。その時トランクスは助けようとしなかったベジータを責めるが、ベジータはそれを一蹴したので、トランクスは絶句してしまうのである。このようなぎこちのなさは孫親子にはない。それどころか、孫悟飯は父に対して疑問を抱かなさすぎるとさえ言えるだろう。

彼らの対照性が際立っているのは最終決戦のシーンだ。セルが自爆し、悟空が死ぬ。その後復活したセルにトランクスが殺されてしまう。つまり孫親子は親の方が死ぬのに対し、ベジータ親子の方は子供が死ぬのである。そのままもつれ込むように最終決戦に入り、かめはめ波とかめはめ波がぶつかり合う。この時、ベジータもセルを倒す一助となるのは見逃せないポイントだ。つまり孫親子が主役としてセルを倒すのだが、そこには影のようにベジータ親子も参与している訳である。

親が犠牲になるのと子供が犠牲になるのとでは、やはり前者の方が正しい。理由は二つある。まず、新しい生命が死んでしまっては社会が存在できない。そして個人という観点から見ても、長く生きてきた人間は重い罪悪感を蓄積している訳だから、思い切って正しい目的のために自分を犠牲にした方が、すっきりする。罪悪感を解消できるという良さがある。死んだ悟空が明るいのに対して、生き残ったベジータはずいぶんと暗い様子だ。意気消沈として、俺はもう戦わないとまで言うのである。彼は負けてしまったのだ。

このようにセルとの最後の戦いを振り返ってみると、孫親子は正しい道を選んだので主役としてセルを倒す立場になったのだが、ベジータ親子の方は間違った道を読者へ示す役割を背負わされたので、主役には就けなかったと受け取れる。しかし彼らがそのような形でドラマに貢献したということもまた事実だ。その表れがベジータのセルへの攻撃なのだろう。それをきっかけにして御飯はかめはめ波に力を込めて、セルを倒す。つまりベジータは一定の貢献を果たしている。言い換えれば、影としての貢献にも価値があるということを作者は認めているのだ。

セル

17・18号がゲロを殺した後は、さまざまな話の経過を挟んでから、今度は復讐するような形でセルが17・18号を吸収する。

セルは興味深い存在である。彼は登場時は老人の外見をしている。次に17号を飲み込んで中年の男性へと姿を変える。そして18号を吸収すると、最終的には青年の容姿に変化するのである。つまり若返っていく。この変化は32巻の巻末にある扉絵ではっきりと確認できる。

この若返りという観点から言っても、ゲロとセルが物語の役割として同一人物をなしているということが理解できるだろう。ゲロは死にたくないので自分を人造人間に改造した。それは若返りの欲望と似ている。つまり前項で確認した「親が犠牲になって子供を活かす」という正しい方向性とは、まったく逆の方向に彼らは向かっている。だからこそセルは絶対の悪として戦士たちの前に立ちはだかるのである。

考えてみれば、セルは吸血鬼のように人間を吸い取り、力を増大させていく。そして生意気な若者、という感じの容姿をした17・18号さえ吸収してしまう。つまり老いた者が若い者を殺して奪い取っている。このような事実は前述の方向性と一致している。したがって、セルは社会を完全に滅ぼす。古い生命が新しい生命を根絶やしにするようなコミュニティが、続いていく道理がない。セルはテレビで、セルゲームで人間側が負けた場合は世界中のすべての人間を殺すと発言しているが、ここまでの議論が理解できていれば、これはまったくうなずける話である。振り返ってみると、フリーザというキャラクターにはけっこう個性があった。ネット上でも時折ネタになっている。一方セルには人気がない。フリーザには実にさまざまな部下がいたのに対して、セルは一人である。彼は一人のまま完成している。なぜなら彼は人類の破滅と同義であり、それ以上先には何もないからである。無味乾燥な存在なのだ。

怒り

孫悟飯がセルに勝つためには、怒らなくてはならない。しかし御飯は怒ることが出来ずに苦しむ。そこにはかなりのページが割かれている。これは注目すべきポイントだと思う。

孫親子のあいだには不和がない。色々と示されている他の親子のペアと比べると特に不和のなさが際立っているのだが、どうやらそれが怒りのなさと結びついているらしい。ピッコロが御飯の胸の内を推測して、御飯は怒ることが出来ないと悟空に抗議するのだが、その発言内容は親子の仲の良さと関連している。仲が良いというよりは、仲が悪くなるきっかけがないと言った方がより的確だろうか。御飯は良い子なので、親に逆らうという気持ちが薄く、それが怒れない遠因となっているのである。

16号と孫悟空の二つの犠牲によって、ようやく御飯は怒りを正しい形で解放し、コントロールした上でセルを倒すことに成功する。

その他

セル編のプロットは綿密に計算されているように思われる。例えば孫悟空が別の未来では心臓の病で死んでいることが物語の序盤で示されるのは、彼の老いを暗示している。また複雑な物語を楽に動かすために、悟空に瞬間移動の技を習得させておいたのは賢明なやり方だ。タイムトラベルという複雑な話を週刊連載でやるのもなかなか大変だったのではないだろうか。

セル編を読解することで、我々は優れた物語の組み方を学ぶことができる。

ところで、ハンターハンターでも今は代替わりというテーマが取り上げられている。この漫画はドラゴンボールを如実に意識しているので、冨樫義博が鳥山明とどのように異なる結論を導き出すのか、興味が尽きない。