留保のない怒りはありうるのか

前回に引き続きヒストリエを考察していく。

ヒストリエのテーマは個人の自由と怒りである。この二つは不可分に結びついており、分けて考えることができない。どういうことか。

ヒストリエにたびたび見られる現象に、怒りによって組織が崩壊してしまう、ということがある。カルディアの奴隷トラクスは主人テオゲイトンに虐げられていたが、鎖を外された途端にそれまでの怒りを爆発させ、主人の一家を惨殺してしまう。またエウメネスを買い上げたゼラルコスは、奴隷であるリュコンたちの蜂起に逢って殺されてしまうが、すぐに彼ら自身が乗っている船の操作に支障をきたすようになり、結局は難破してしまう。奴隷という組織の下部を支える人材が怒り出した途端、船という組織は崩壊してしまうのである。さらに言えば、ティオス市のダイマコスは村攻めの戦いのさなかに怒りを爆発させ、その結果兵を導くことに失敗し、自身も殺されてしまう。

このような出来事の延長上にエウメネスがサテュラを諦めたり、あるいはエウリュディケを諦めたりすることがあると考えると、理解がしやすくなる。つまり、この場合はエウメネスが個人の怒りを収めているので、組織である村や国は安泰に、順風満帆に運ばれていくのである。

「多くの人々の人生を踏みつけ踏み台にして2人だけの幸せをつかむ……。 それはそれで1つの生き方かもしれないけど、 おれやきみには無理だろう……?」

組織をまとめあげ一つの生き物として有機的に働かせるのに、怒りは邪魔者なのである。組織は個人の意思や感情を飲み込み、巨大な一つの生命体として動いていく。その時に初めて最大の力を発揮することができる。しかし個人がそれに反抗し、すなわち怒って自由というものを主張し始めるとどうなるか。組織は瓦解し、機能しなくなってしまうのである。だがそうなると、個人は普通組織に依存して生きているものだから、しまいには個人の居場所さえも失われてしまう。我々は怒りをいけにえに捧げ、組織というものを生かし続けていくしかないのである。

エウメネスは前回の考察で述べたように、幼い頃のゆくたてが元で、思うがままの怒りというものを発揮しにくい性格になっている。事実彼はサテュラを諦めているし、復讐もその本懐は遂げず、幼い頃に家に向かってぶつけた怒りも後悔して、母親の墓に向かって謝罪しており、エウリュディケも諦めるのである。

さて、そんなエウメネスだが、果たして彼が留保のない怒りを発揮することはありうるのだろうか? これは、実に興味深い問いである。もしもそのような瞬間が訪れるとしたら、それは一体どういう状況なのだろう? あるいは、ないとしたら、彼は怒りをどのように消化するのであろうか。そのような大きな問いを、この作品は内に秘めているように感じられるのである。

『ドラゴンボール』における代替わりというテーマ

本稿では漫画『ドラゴンボール』のセル編の物語について解説する。セル編は単行本の28巻から35巻までに収録されている。

親子のヴァリエーション

セル編にはさまざまな親子の組が登場する。まず冒頭にフリーザ親子が出てくる。次いでトランクスとベジータ、人造人間20号と17・18号(前者はドクター・ゲロで、後者を造った)などが現れる。彼らはそれぞれに異なった多様な顔を読者に見せる。そしてこれら親子のヴァリエーションは、物語の最終目標である孫悟空から孫悟飯への主人公の代替わりのために用意された、布石のようなものであると捉えることができる。次にそれらのペアをすべて挙げてみよう。

  • フリーザ親 - フリーザ
  • ベジータ - トランクス
  • 人造人間20号(ゲロ) - 17・18号
  • 神様 - デンデ
  • 孫悟空 - 孫悟飯

セルは物語の形式上はゲロと別の人物だが、物語の実質という観点から見ると、ゲロと同一人物だとみなせる。セルもゲロも登場時の外見は老人のそれだ。また、敵のエネルギーを吸収することや、17・18号と敵対しているという共通項がある。したがって<ゲロ - 17・18号>の組は、<ゲロ=セル - 17・18号>の組であると捉えることができる。

孫親子とベジータ親子の対比

では、これらのペアをつぶさに見ていこう。

フリーザ親は息子であるフリーザが殺されてもまったく動揺しない。それどころか殺した相手であるトランクスに「私の息子にならないか」ともちかける始末である。このような情のなさは、理想的でない親子の例として持ち出されているのだろう。

逆に、子が親を無残にあつかうケースもある。17号・18号がゲロを殺す際、クリリンが「自分の親を殺すなんて」という旨の発言をする。(30巻 P17) いずれにせよ、どちらのペアも親子の縁というものが機能していない。

神様からデンデへの交代はさらっと描かれているが重要なことだ。これは親子とは違うが、代替わりというテーマと密接に関係している。まず神様が消えて、ドラゴンボールがなくなる。作品のタイトルにもなっているものが失われるのだから、これはかなりの大事だ。それが、セルとの最終決戦の直前になってデンデがやって来て、新しい神様として就任し、ドラゴンボールを復活させる。このエピソードは、孫悟飯が悟空の代わりに地球の平和を担う新しい戦士の立場になることを予兆している。こういう小さいエピソードをラストの前に設けておくのは優れたストーリーテリングだ。

ベジータとトランクスは常に孫親子と対照的に書かれる。トランクスはベジータに対して、親としての責任がないと責める。単行本29巻では、ゲロが放ったエネルギー波から、トランクスがブルマを救う。その時トランクスは助けようとしなかったベジータを責めるが、ベジータはそれを一蹴したので、トランクスは絶句してしまうのである。このようなぎこちのなさは孫親子にはない。それどころか、孫悟飯は父に対して疑問を抱かなさすぎるとさえ言えるだろう。

彼らの対照性が際立っているのは最終決戦のシーンだ。セルが自爆し、悟空が死ぬ。その後復活したセルにトランクスが殺されてしまう。つまり孫親子は親の方が死ぬのに対し、ベジータ親子の方は子供が死ぬのである。そのままもつれ込むように最終決戦に入り、かめはめ波とかめはめ波がぶつかり合う。この時、ベジータもセルを倒す一助となるのは見逃せないポイントだ。つまり孫親子が主役としてセルを倒すのだが、そこには影のようにベジータ親子も参与している訳である。

親が犠牲になるのと子供が犠牲になるのとでは、やはり前者の方が正しい。理由は二つある。まず、新しい生命が死んでしまっては社会が存在できない。そして個人という観点から見ても、長く生きてきた人間は重い罪悪感を蓄積している訳だから、思い切って正しい目的のために自分を犠牲にした方が、すっきりする。罪悪感を解消できるという良さがある。死んだ悟空が明るいのに対して、生き残ったベジータはずいぶんと暗い様子だ。意気消沈として、俺はもう戦わないとまで言うのである。彼は負けてしまったのだ。

このようにセルとの最後の戦いを振り返ってみると、孫親子は正しい道を選んだので主役としてセルを倒す立場になったのだが、ベジータ親子の方は間違った道を読者へ示す役割を背負わされたので、主役には就けなかったと受け取れる。しかし彼らがそのような形でドラマに貢献したということもまた事実だ。その表れがベジータのセルへの攻撃なのだろう。それをきっかけにして御飯はかめはめ波に力を込めて、セルを倒す。つまりベジータは一定の貢献を果たしている。言い換えれば、影としての貢献にも価値があるということを作者は認めているのだ。

セル

17・18号がゲロを殺した後は、さまざまな話の経過を挟んでから、今度は復讐するような形でセルが17・18号を吸収する。

セルは興味深い存在である。彼は登場時は老人の外見をしている。次に17号を飲み込んで中年の男性へと姿を変える。そして18号を吸収すると、最終的には青年の容姿に変化するのである。つまり若返っていく。この変化は32巻の巻末にある扉絵ではっきりと確認できる。

この若返りという観点から言っても、ゲロとセルが物語の役割として同一人物をなしているということが理解できるだろう。ゲロは死にたくないので自分を人造人間に改造した。それは若返りの欲望と似ている。つまり前項で確認した「親が犠牲になって子供を活かす」という正しい方向性とは、まったく逆の方向に彼らは向かっている。だからこそセルは絶対の悪として戦士たちの前に立ちはだかるのである。

考えてみれば、セルは吸血鬼のように人間を吸い取り、力を増大させていく。そして生意気な若者、という感じの容姿をした17・18号さえ吸収してしまう。つまり老いた者が若い者を殺して奪い取っている。このような事実は前述の方向性と一致している。したがって、セルは社会を完全に滅ぼす。古い生命が新しい生命を根絶やしにするようなコミュニティが、続いていく道理がない。セルはテレビで、セルゲームで人間側が負けた場合は世界中のすべての人間を殺すと発言しているが、ここまでの議論が理解できていれば、これはまったくうなずける話である。振り返ってみると、フリーザというキャラクターにはけっこう個性があった。ネット上でも時折ネタになっている。一方セルには人気がない。フリーザには実にさまざまな部下がいたのに対して、セルは一人である。彼は一人のまま完成している。なぜなら彼は人類の破滅と同義であり、それ以上先には何もないからである。無味乾燥な存在なのだ。

怒り

孫悟飯がセルに勝つためには、怒らなくてはならない。しかし御飯は怒ることが出来ずに苦しむ。そこにはかなりのページが割かれている。これは注目すべきポイントだと思う。

孫親子のあいだには不和がない。色々と示されている他の親子のペアと比べると特に不和のなさが際立っているのだが、どうやらそれが怒りのなさと結びついているらしい。ピッコロが御飯の胸の内を推測して、御飯は怒ることが出来ないと悟空に抗議するのだが、その発言内容は親子の仲の良さと関連している。仲が良いというよりは、仲が悪くなるきっかけがないと言った方がより的確だろうか。御飯は良い子なので、親に逆らうという気持ちが薄く、それが怒れない遠因となっているのである。

16号と孫悟空の二つの犠牲によって、ようやく御飯は怒りを正しい形で解放し、コントロールした上でセルを倒すことに成功する。

その他

セル編のプロットは綿密に計算されているように思われる。例えば孫悟空が別の未来では心臓の病で死んでいることが物語の序盤で示されるのは、彼の老いを暗示している。また複雑な物語を楽に動かすために、悟空に瞬間移動の技を習得させておいたのは賢明なやり方だ。タイムトラベルという複雑な話を週刊連載でやるのもなかなか大変だったのではないだろうか。

セル編を読解することで、我々は優れた物語の組み方を学ぶことができる。

ところで、ハンターハンターでも今は代替わりというテーマが取り上げられている。この漫画はドラゴンボールを如実に意識しているので、冨樫義博が鳥山明とどのように異なる結論を導き出すのか、興味が尽きない。

岩明均における母というテーマ

この記事では岩明均の作品に見られる母親というテーマを確認する。

二つの大きなエピソード

まずは『寄生獣』のプロットを見ていく。この物語の中で一番大きな位置を占めている事件は、母親の身体を乗っ取った寄生生物に主人公が心臓を破られて、殺されかけることである。この事件をきっかけに彼は文字通り生まれ変わる。身体能力も強化され、寄生生物を始末したあとは容姿も変わる。この事件に対応する形で置かれているのが、終盤の田村玲子の死である。この対となる二つのエピソードが本作の要であり、事実もっとも作品の力が表れている箇所だ。

それ以降の話というのは、言わば清算にすぎない。異物として出現し語られた寄生生物は、結局のところ人類によって駆逐される。集団としての人間、すなわち“社会”を代表するのが自衛隊であり、彼らは市役所を囲んでほぼすべての寄生生物を倒す。一方“個”を代表するのが主人公・泉新一だ。彼は右手の寄生生物を失くした状態、つまり完全に人間の状態で最強の寄生生物である後藤と戦い、勝利を収める。そして作品の終わりでは生命がどうとか生き物としての尊厳がどうとかいう話が出てきて、何やら哲学的なことが語られたりするが、実のところこの部分は割りとどうでもいい。あまり面白くない。それよりもやはり前述の二つのエピソード、特に後者の田村玲子の話の方が圧倒的に面白い。そこで我々は物語を通じてしか受け取ることのできない、特別な体験をする。言葉で表現をするのが難しい、ある種の心の動きを、我々はみずからの内に感じることになる。

母親の自己犠牲

主人公の母親はかつて彼をかばい、右手にやけどを負った。その跡はいまだにくっきりと残っており、主人公の罪悪感の象徴として存在し続けている。いっぽうで彼女は寄生生物という悪を身にまとって、子供の生命を奪う役割も果たしている。その後主人公は母親と戦い――正確には母親の身体を乗っ取った寄生生物と戦い――殺すことになる。

したがって主人公にとって母親とは、自己を犠牲にして子供を守る母性愛の体現者であると同時に、我が子を殺そうとする憎むべき存在であるという、矛盾した性質を持ち合わせていることになる。無論人間には親を愛する気持ちと憎む気持ちの両方が存在しているのが普通であるが、泉新一のようにあまりにも極端な矛盾を背負うのは、やはり苦しいものがある。

そのような複雑なもつれを解消するのが田村玲子である。

田村玲子は寄生生物の身でありながら、まるで人間のように、自分の子供をかばって殺される。その結果、彼女は主人公の内部でせめぎあう二つの課題を解決することに成功する。

  • 一児の母である田村玲子が人間の手によって殺されるため、前述の「母親を憎む」主人公の気持ちは解消される。寄生生物は人類にとっての敵であるから、主人公はそこに倫理的な葛藤を抱かずに済む。
  • 田村玲子は圧倒的な暴力を前にしても自分の身を呈して子供を守るため、それを目撃した主人公の胸の内では、「自己を犠牲にして子供をかばう母親」という理想像がすんなりと納得され、葛藤が解消される。

このような奇跡的な二重性は、偽物が本物に近づくという、いわば演技やフィクションの物語に通じる構造によって支えられていると言えるだろう。

人間ではない寄生生物がゼロベースから感情を学び、母性愛の萌芽を知ってそれを実践した。“つくりもの”の土台が、かえってその上に築かれたものの純粋性を担保しているのだ。これは我々が小説や漫画をつくりものと知りながら読んで、本気で涙を流すことと似た構造になっている。黙って攻撃に耐え、子供を守り、死を受け容れる女性の姿を前にして、ようやく主人公は自分の中にあった怒りや憎しみの感情を赦すことができた。

影の成長

田村玲子は初め教師として主人公の前に姿をあらわす、寄生生物のひとりである。彼女は本作の第二の主人公と言ってもよいぐらい重要な位置を占めている。物語は進行するにつれて、主人公同様に彼女の「成長」を語っていくことになる。

田村玲子はさまざまな実験を行い、人間と寄生生物について研究をおこなう。セックスをして妊娠し、子供を産み、みずから育てる。一つの市を寄生生物のコロニーにしようとする政治家と寄生生物の集団に協力し、後藤という名の強力な寄生生物を作り出す。

次第に彼女は人間の心に興味を持ち、演技ではなく、自然に笑うことも覚える。そして死の間際に母性愛に近い何かを見せる。

河合隼雄はユング心理学の"影"という概念について解説している。次は、日本軍の捕虜収容所を体験した英国人の小説『影さす牢格子』を解説した文章である。

 一般の西洋人にとって「黄色い獣」としか思われないハラに対して、ロレンスは対話を試みる。しかし、日本人のハラが主導権を握っていた捕虜収容所における「対話」は、主として身体的なことによって行われた。つまり、そのほとんどはハラのロレンスに対する殴打であり、拷問である。あるいは捕虜の中でロレンスのみが認めたハラの瞳の輝きである。これらの非言語的な行為を、ロレンスはひとつのコミュニケーションとして受けとめ、その中に深い意味を読みとることができた。
(中略)
 終戦を境にして彼らの立場は一変する。死刑囚となったハラと、ロレンスとのあいだのコミュニケーションは、もっぱら言語的になされる。ここで、死を恐れないハラが「なぜ?」と問いかけるのは意義が深い。ハラがまったく日本人的な人生観によって行動するならば、すべては「仕方がない」こととして受け容れるべきではなかったか。死刑の宣告をチャンピオンのように受けとめた彼は、死の間際になって、「なぜ」ということを問題にしているが、それこそは西洋人が発する問いではなかっただろうか。正しいとか正しくないとかは問題でなく、負けたのだから仕方がないと彼は考えなかった。正しいことをした自分がなぜ罪人として死なねばならないのか、と彼は合理的な問いを発する。そして、それに対するロレンスの答えは、まったく日本的なものであった。
 ここに影との対話の特性がみごとに描きだされている。影と真剣に対話するとき、われわれは影の世界へ半歩踏みこんでゆかねばならない。それは自分と関係のない悪の世界ではなく、自分もそれを持っていることを認めばならない世界であり、それはそれなりの輝きをさえ蔵している。

(河合隼雄『影の現象学』)

田村玲子は人間の"影"である。彼女が撃たれて死ぬ場面は、見事に上記の引用の特性を満たしている。つまり『寄生獣』という作品において、前半では寄生生物たちの殺人と人食いが残酷に描かれて強調されているのだが、いま問題にしている場面ではむしろ人間たちの方がその残酷さを発揮している。多数でもって一方的に一つの個体を武器で攻撃しているからである。そして寄生生物である田村玲子は、むしろ自分の子供を護るという「人間性」を発揮している。つまり両者はそれぞれの立ち位置のまま、お互いの性質を部分的に交換していると言っていい。彼らはたしかに「影の世界へ半歩踏みこんで」いる。

『寄生獣』という作品の偉大さは、このような影の存在を徹底的に滅ぼしたりせず、将来どうなるのか興味深く見守って、その成長を確認したところにある。つまり懐が深いと言ってよいと思う。よくよく反省してみると、この作品には老人が出てきて物を言う場面がけっこう多い。この点もそのような「懐の深さ」と関連があるのではないかと考えると、得心がいく。

例をいくつか挙げておくと、通りがかりのおじいさんがヒロインの里美に向かって、「だめだって! 若い嬢ちゃんがでっけ声で「くっそ~~」なんて言っちゃあ!」と窘める箇所がある。また、市役所から移動させられる老人たちが、自衛隊の装備を見て「犯人が可哀想だ」と言う場面がある。もちろん後藤との戦いの前に主人公に知恵を授ける美津代という老婆の存在は、言うまでもなく非常に重要である。

怒れる神としての母

"母"というテーマは『ヒストリエ』にも引き継がれており、主要な柱となっている。主人公・エウメネスの実の母親は彼をかばって剣を持って戦い、敵を斬りまくったうえで殺される。それも田村玲子のように、大勢の手によって嬲り殺しにされる。自分に代わって敵と戦い、災いを引き受けて死んでくれるもの。それがエウメネスにとっての母である。

アレクサンドロス王子はエウメネスの対となる存在であり、彼にも対応する"母"のエピソードがある。幼い頃彼は母親の寝室に侵入し、男と交合している姿を目撃する。男はアレクサンドロスを殺そうとするのだが、母親オリュンピアスは剣でもってその者を殺し、首を切断して床に転がす。王子が王位を継ぐことを熱望しているオリュンピアスは、その場で彼にまじないのようなものをかける。まじないによって王子は二重人格者になってしまう。

この二つのエピソードには共通している点と対照的な点がある。それらをこまかく検討していこう。

まず、両方とも"母"が外敵を殺している。それも子供を守るために剣を振るっている。その点は同じなのだが、エウメネスの母が曇りのない愛によって自らを完全に犠牲に捧げるのに対して、アレクサンドロスの場合は逆で、むしろオリュンピアスは子供を自分の思い通りに動かそうとしている。エウメネスの母は命を失うのだが、アレクサンドロスの母は元気に生きている。

二人の少年はこのエピソードを通して特殊な罪悪感を植え付けられることになる。エウメネスには自分のために母を死なせてしまったという罪悪感が、まず基礎としてある。さらに彼は、自らを守るために涙を流さないような心理状態に自分自身を持っていったのだが、その結果育ての父となるヒエロニュモスの歓心を買うことになり、命が助かるどころか都市カルディアで贅沢な暮らしまで送ることになる。エウメネスは母の気高い行為からずいぶん離れた地点まで移動してしまった訳である。そのような複雑な心理の経緯が、彼にはある。

アレクサンドロスの方は「自分の本当の父親は誰なのか」という疑問を植え付けられることになった。一匹の蛇が彼の代わりに、疑問を表象する男の生首を飲み込んでくれた訳だが、果たして蛇はそれを無事に“消化”できたであろうか。それはむしろ見えない所に移動し、深い場所でアレクサンドロスの精神をむしばんではいないだろうか。

"怒り"という点も見逃せない。どちらのエピソードでも母親は怒り狂っている。彼女たちは嵐のように思うままに暴力を振るっており、圧倒的な力で外敵をなぎ倒している。これは『寄生獣』では見られなかった要素だ。

誰かが自分の代わりに、心の底から、本気で怒ってくれる。

そのような心象風景を強烈に刷り込まれたエウメネスとアレクサンドロスは、しかし自分自身の怒りを存分に発揮することができない。エウメネスは奴隷として生家を離れる際に「よくもだましてくれたな」と雄叫びをあげるのだが、現在の最新刊である10巻まででは、どうやらそれが唯一の率直な怒りの表現のようだ。他の怒りのようなものは、どれも叩きつけるべき相手に率直にぶつけられてはいない。その唯一の怒りの声でさえ、後に彼がカルディアに戻ってきた時には、罪悪感を告白するという形で後悔されているのである。

留保のない暴力的なもの。それも自分自身が発祥であるような“勝手な”怒り、"思うがまま"の怒りというものを、彼らは掴めないのである。アレクサンドロスの場合その怒りは、みずからを呑み込まんばかりに巨大な母親から、逃げようとする焦燥に他ならない。したがって必然、それは自己破滅的なものになる。もっともそれは物語の妙というか、歴史に名を残す神憑り的な人物であるから、周りの人間が代わりにその破滅をかぶってくれている。学友のハルパロスが大怪我を負うエピソードにはそのような意味がある。よく読むと、王子が馬で岸を飛び越えたのは、前述の母のエピソードと関連性があると記されているのが分かる。

最後に、夢という点を挙げたい。両者のエピソードは共に、夢そのものであったり、あるいは夢のような雰囲気を持っている。霧がかかった風景のように、明確でない点がある。日常生活のなかで、時に断片的な何かが思い出されることもある。そのあやふやさが記憶に神話的なスケールを付与し、彼らの母に、神にも等しい圧倒的な偉大さを身につけさせることとなった。まったく、この母親たちは巨人のように力強いのだ。

 二者の交流

今後、物語はどのような方向に進んでいくのだろうか。アレクサンドロスとエウメネスの交流には、とても興味が惹かれる。なお怒りというテーマは、個人の自由というテーマと結びつきがあるように思われる。それはまた機会があれば書きたい。