影と鏡像6

本稿では心の入れ替えという作用について記す。

セルバンテスのメソッドは典型的な入れ替えの例である。セルバンテスは人間の心が意識と無意識の二層に分かれていることを喝破し、かつそれぞれの層が抱えている感情を入れ替える方法を発明した。それがすでに別の記事で説明したセルバンテスのメソッドだ。

これを本稿のために言い換えれば次のようになるだろう。すなわち小説の作者が多様な方法でただひとつの感情を記述し、読者に押し出せば押し出すほど、無意識の層ではその反対の感情が膨れ上がっていく。その膨張が極大にまで達したところで最後のスイッチを押してやると、なんとそこで意識の層の感情と無意識の層の感情が入れ替わる。読者は意外な、しかし実は無意識で期待していた結果が得られ、おおいに満足する。

古事記における二の姿も、入れ替えという基本的な機構についてはこれと同じである。すなわち二つの感情を入れ替える。しかし古事記においては、意識が自己に、無意識がペアとなっている他者に相当する。古事記は個人をさらに分解して意識と無意識に分けたりはしないのだ。あくまでもそれは自己と他者なのである。

しかも古事記では、一方の感情が極大に達することをよしとしない。古事記は一方が膨れ上がっていくと、早めに介入をおこない、入れ替えを用いて両者のバランスをとる。つまり一方が他方を大きく上回ることがない。したがって入れ替えの作用は前述のセルバンテスのメソッドと比較するとこまめに行われると言っていい。

整理するとセルバンテスのメソッドにおいては、人間の心は意識と無意識というモデルになり、それは意識が優位、無意識が下位という上下関係の構造になる。これに対し古事記においては人間の心は自己と他者に分けられる。そこでは個人というものは存在せず、どんな人間も大きな構造の中の一部にすぎない。そして自己と他者は対等であるから、上下には配置されず、水平に並べられる。これがまさに別の記事で説明した左右関係というものである。

左右関係は天秤になぞらえられる。バランスを取り、両方の皿が同じ高さに吊られている天秤だ。一方の皿が重くなると二つの皿は協力して荷の入れ替えをおこない、調整をする。したがって左右関係ではドラマティックな出来事は基本起こらない。それが起こるのは左右関係の解消時のみである。

これに対し上下関係は砂時計にたとえられる。すべての砂が落ちると、なんとそこで劇的な上下の反転が起こり、観客はその運動に驚き、興奮する。上の瓶が意識、下の瓶が無意識を指していると言っていいだろう。これこそがすでに述べたセルバンテスのメソッドだ。

けっきょくどちらも心の入れ替えという運動が行われている点は同じである。しかし目指すべき地点は違っている。セルバンテスのメソッドでは劇的な動きが目指されるが、古事記では静、あるいは打ち消しあいが目指されるのだ。