影と鏡像5

影と鏡像は負の姿である。それは正の姿としては、古事記における二ということになる。西洋的な価値観から古事記における二の姿を見ると、それは影と鏡像として目に映る。

古事記における二は、代表的なものとしてはやはり結婚する男女である。彼らは持ち物を交換したり、立場を入れ替えたりする。

彼らの最大の特徴は、二のままであり続けること。結合して一にはならないということだ。それでいて二者の間には融和的な雰囲気が存在しているので、矛盾というものは存在しない。西洋的な価値観が本体と影の二者に対して融合を求めるのと、これは相反する。たとえば『影との戦い』や『街とその不確かな壁』といった物語においては、最終的に本体と影の二者は合一するが、これらは西洋的な価値観に沿ったお話しなのである。古事記はそうではなく、二者を平和に共存させる。

二者が二者のままでありながら和をつくるために、交換や入れ替わりというものがあるのだと受け取れる。それは融合の方向に沿った運動ではあるが、融合そのものほど融合的でないのである。融合のいくつか手前にある行為が交換や入れ替わりなのだろう。それは二が二であることを保ったまま親密であるために必要な行為なのだ。

こう考えていくと、女性が男性を拒否する挿話も理解されてくる。男性が勘違いをして女性に合一を迫ると、女性は二を保つためにそれをしたたかに拒絶する。合一は禁忌なのだ。そのとき女性は人間よりも自然に近い姿をしている。蛆のたかった死体や、あるいは鮫の姿をしている。このような拒否の極限にあるものが海であると受け取れる。それは人からもっとも遠い距離にある自然なのだ。だからスサノオは海を統治できない。そういう意味では『豊饒の海』というのは、非常に適切なタイトルなのである。

繋がりあって和を確立させた二の間では、役割分担がなされる。片方が男でもう一方が女だ。それは一見すると男の方が優勢に思える。しかし実際には作られた二というひとつの円において、外へと行使する力が大きいのが男であり、逆に二を糊して円を保つ力が大きいのが女という、分担がなされているだけなのである。しかもそれはときおり立ち位置を入れ替える。彼らは絶対的な上下関係にあるのではなく、左右関係にある。

男はこれらのルールをよく知らない。逆に女の側はよく知悉している。女は事物の裏まで見通すことができるのに対して、男は表しか見られないのである。したがって女は男に対して「拒否」という明確な切り札を持つ。二が崩壊しては男もまた力をなくしてしまうということを彼女はよく知っているのだ。男が「力」で女に合一を迫ると、女は「心」で拒否をおこなう。女性の中には立ち入り禁止の領域があり、男はそこを尊重しなければならないのだ。そしてそれ以外のことでは、男はこの二という円の中におけるルールについてあまり知っていない方がいい。むしろ阿呆の方がいい。その方が女も安心して円を統治できるからだ。

女の拒否は合一を迫る男をたしなめて二を保つ働きをすることもあれば、完全に繋がりを破壊してしまうこともある。しかし後者の場合ですら、拒否は必ずしも和を破壊するだけとは言い切れない。たとえばイザナミの拒否は、人の生き死にの概念を確立させるという創造的な働きをする。繋がりが断ち切られることを代償として創造性が立ち上がる、と言ってもいいかもしれない。世界という観点から見れば、彼らはたしかに均衡を作り上げている。それはプライベートな領域、すなわち愛という領域の喪失ではあるのだが、世界の均衡という観点から見れば寄与しているのである。