13回のヤナーチェック

『1Q84』の最初の青豆の章には、文庫版では24ページの中に「ヤナーチェック」という固有名詞が13回も登場する。この繰り返しについて本記事では解説をおこなう。

セルバンテスは『ドン・キホーテ』中の短編『愚かな物好きの話』において、小説の最も基本的なテクニックを構築して、誰にでも分かる形で明らかにしてみせた。

それは次のようなものだ。ある一つのことを執拗に何度でも繰り返す。文章は長く、長くなっていく。その中で最初に提示された一つの物事は、比喩やたとえ話などのさまざまな表現方法を用いられて変化しながら、しかし本質は元のままに、何度でも繰り返されていく。そうして一つの物事が変化を遂げながら執拗に繰り返されていくうちに読者の心理は変化していく。その反対の物事への疑念・可能性が無意識のうちに芽生えていくのだ。そうやって十分に疑念や可能性を植え付けた後に一気に物語を反対の方向へ持っていくと、読者は興奮し、感動する。急激な展開にももちろん納得し、面白さを覚える。

フランツ・カフカはこの技法をよく知悉していた。そこで彼はセルバンテスの方法論を反省し、それを少し変形させて『城』という小説で実行することに決めた。彼はくりかえし登場させる物事に変化を加えるのをやめて、ただ単語をそのまま反復させるという愚直なやり方を実行したのである。「クラム」という人名がそれだ。カフカはクラムという作中の人物に主人公よりも強力な権力を与え、かつ主人公がそれに接近しようとしても決して邂逅できない人物として描いた。不条理かつ、主人公を圧迫する雰囲気を付与したのである。そしてその人名を作中でこれでもかというほど繰り返し登場させた。言い換えは行わずに「クラム」という名前そのままでだ。するとその単純な反復がちょうど中盤の次の引用の箇所で爆発的な効果を生んだ。主人公とヒロイン・フリーダが口論している場面だ。

「わたし、ここのこんな生活に我慢できないわ。もしあなたがわたしをつかまえておこうと思うなら、わたしたちはどこかへ移住しなければならないわ、南フランスか、スペインへでも」
「移住はできないよ」と、Kはいった。「私がここにきたのは、ここにとどまるためなんだ。私はここにとどまるよ」そして、矛盾をさらけ出しながら(彼はその矛盾を少しも説明しようとはしなかった)、ひとりごとのようにつけ加えていった。「ここにとどまりたいという要求のほかに、何が私をこのさびしい土地に誘うことができただろう?」つぎにまた、こういった。「でも、君だってここにとどまっていたいんだろうね、ここは君の故郷の土地なんだもの。ただクラムが君にいなくなったものだから、それが君を絶望的な考えに引き入れるんだよ」
「クラムがわたしにいなくなった、ですって?」と、フリーダはいった。「クラムなんかここにはあり余るほどいるのよ。クラムがいすぎるくらいよ。あの人から逃がれるために、わたしはここを去りたいのよ。クラムではなくて、あなたがわたしにとってはいないのよ。あなたのためにわたしはここを去りたいの。ここではみんながわたしを無理に引っ張って、そのためあなたをあきるほど愛することができないからなのよ。わたしが静かにあなたのところで暮らせるように、きれいな仮面がわたしからはぎ取られ、わたしの身体がみじめになればいい、と思うくらいなのよ」

 文字のゲシュタルト崩壊という現象がある。同じ文字を見続けていると段々と文字を構成する図形が崩壊して見えてきて、元の文字が何だったのか分からなくなってしまう事態のことだ。『城』においてクラムという人名に起こっているのは、いわば意味のゲシュタルト崩壊というべきものだ。クラムという言葉があまりにも繰り返される内にそれは元々指していた特定の人物という意味合いを外れていき、付与されていた不穏なイメージが暴走して、主人公とヒロイン二人に敵対するあらゆる総合のように思われてくるのである。

引用したフリーダの台詞にはある種の快感が確かにある。それも凄まじい爽快感だ。ジェットコースターに乗って猛スピードで下っていくと、ある所でレールが外されており、空中に投げ出されて飛翔していくような感覚がそこにはあるのだ。それは間違いなく快感ではあるのだが、しかし死に向かっていく自棄的な面が存在していることも疑いえない。

『1Q84』における「ヤナーチェック」の繰り返しは、『城』における「クラム」のパロディである。

作者の村上春樹は、おそらくとても低い地点にいた。それは「言葉には何の力もない」という恐ろしい場所だ。それは彼にとっては主義や主張ではなかった。ただ端的な事実だった。それは目の前にあり、手にとって輪郭を確かめることができるほどに明らかなものだった。それは「本当のこと」以外の何物でもなく、きっと世界でただ一人、村上春樹だけが事態の正確な認識をしていた。したがって作家は文章を書く人間にとってもっとも辛いところ、いわば極北から作品を立ち上げなければならなかったと言える。死んだままそのことに気づかずに地上で暮らし続けているような透明な心境から、彼は出発せざるを得なかった。

言い換えれば、彼の内には「言葉に意味を持たせなければならない」という課題があった。そこに血を通わせ、熱を取り戻すためにはどうすればよいのだろうか。これは、根本的な問いだ。

ところで村上春樹が立った寒々しい場所は、カフカが『城』で見せた「クラム」という言葉にちょうど隣接するところだった。そこは言葉が意味をなくした地点だ。だから村上春樹は『城』のパロディを実行することに決めた。自分は見かけ上は『城』と同じことをする。しかし自分が目指す方向はカフカとは逆だ。カフカは言葉に意味がある地点からスタートして、それを無意味なものへと変化させた。ならば自分は言葉が無意味な地点から物語を開始して、それを意味あるものへと変化させよう。

言い換えれば作家はまず、言葉には力も意味もないということを素直に認めた。それを受け入れた。そして次に、名前というものをゼロから、じかに手でさわって確認することにした。視覚の利かない闇のなかで、固有名詞という箱にていねいに指を這わせ、手のひらの上に乗せて重さを量り、「それは確かにそこにあるんだな」ということをあらためて知覚しなおしたのだ。『1Q84』の最初の青豆の章では24ページの中に「ヤナーチェック」という名前が13回登場しており、最初の1ページの中には「ヤナーチェック」と「シンフォニエッタ」が3回ずつ登場しているが、そのような繰り返しがなされる背景には、上述した物の感じ方が関係していると言える。我々読者は作家とともに何度も同じ固有名詞を文章中で取り上げることによって、様々な角度から名前というものを検証していくことになる。

この取り組みによって、「ヤナーチェック」という名前が持っている「箱」としての性質が浮かび上がってくる。作家は読者がヤナーチェックも彼のシンフォニエッタも知らないということを前提にして書いているようだ。さらに音楽というのはあくまでも音楽であって、文章をいくら読んだところで実際に聴こえてくるようなものではないから、この性格もまた「ヤナーチェック」や「シンフォニエッタ」の「箱」としての性質を強めていると言えるだろう。それは一つの「仮説」としてある。しかるべき意志とルール、手順を取りさえすれば、希望という中身を伴ったものへと育て上げることのできる箱だ。我々はすでに『1Q84』固有の隠喩表現について仔細に検討してきた。そこでは容器、箱というものがテーマになっている。「ヤナーチェック」の繰り返しはきっと小説のテーマを予告しているのだろう。