『古事記』を読む1

いま僕は河出文庫の現代語訳の『古事記』を読んでいる最中だ。全体の1/3まで読み進めた。今日はここまでで心に留まったことを書いてみたい。

登場が多いのはともかく海と男女である。海と男女のことばかりが書かれていると思っていいかもしれない。

エピソードらしいエピソードとして最初に語られるのがイザナギとイザナミだ。それ以前は天地創世のことが書かれており、ひたすら名前の列挙がおこなわれているだけだ。ここら辺は聖書の創世記に近いと思う。ただし創世記では名前の列挙がおこなわれるのはアダムとイブのエピソードより後になるし、イブが出てくる以前のところにもかなり力のある文章が割かれている。ただ、大きな力のあるエピソードとしては、やはりアダムとイブの楽園追放が最初と見ていいだろう。最初の男女のペアが罪を犯す、とくに女が罪を犯すということは、古事記も聖書も同様である。しかし古事記の場合は、あっさりとやり直しがおこなわれて、スムーズに事は運ぶ。罰はあくまでも蛭子などの忌み子の生成だけだし、それも流されて清算される。聖書は罪に猛烈な力を課すのに対して、日本神話ではそうはならないらしい。

二分法が出てくる。それも上下や善悪ではなく、左右ということに力点が置かれている。最初の男女のペアであるイザナギとイザナミの婚姻に左右が要点として出てくることを鑑みると、どうやら古事記は男女と左右を同じ二分法で捉えているらしい。つまりそれは、上下関係ではない二分法、ということだ。左右はどちらが偉いとか卑しいとかがない、水平分割の二分法なのである。「左右」はくりかえし登場する。イザナギが穢れを川で祓うときに左右の眼と鼻から神が生まれたことや、アマテラスが武装するときの描写にそれは表れている。

古事記における二分法と聖書におけるそれは対照的だ。聖書では、神と人間、男と女といった二分法では、どちらが偉いかが明白に決まっており、覆ることがない。それは「上下」関係なのだ。しかし古事記が採用しているのは「左右」関係である。これは大きな違いであり、注目に値する。

「左右」の特徴は、容易に入れ替わるという点にある。ある人から見たら左にあるものは別の人から見たら右の位置にあったりする。このような入れ替わりの特性は、アマテラスにはっきりと見られる。彼女は女でありながら太陽神なのだ。世界を照らす偉大な力を、男ではなく女が持っている。しかも彼女はスサノオを迎え撃つときは男装をする。アマテラスとスサノオはうけいの勝負をするときに互いの持ち物を交換して神を産むが、ここにも日本神話の独自性、つまり入れ替わりというものがはっきりと示されている。しかも彼女は自分が負けたら、それまでの父性的な態度から、あっさりと母性的な態度に軟化するのである。言い換えれば性格が男から女へ入れ替わっている。

たぶんこれは「交換可能」というよりも、積極的に入れ替わっていると言った方が正確だろう。きっとそこには入れ替わらなければならない理由があるのだ。ただ、ここら辺についてはまだまだ僕の理解や考察は浅い。

こうした奇妙な、興趣ぶかい二分法について、僕はこれから考えを深めていかなければならないと思っている。そう言えば影も本体と交換可能な性質を持っていたな、ということに僕は思い至る。ひょっとしたら何か関係があるのかもしれない。

ちなみに二分法が最初にあらわれるのはあくまでもイザナギとイザナミのセットである。だから、これはちょっとした思いつきに過ぎないのだが、あるいは蛭子は二分法の犠牲者なのではないかと僕は疑っている。いちおう物語の表面上はイザナミが最初に誘いの声をかけたから、ということになっている。それも正しいとは思うが、それだけではなく、実は二分法という理性の明かりによって照らされることで失われたものもあるのではないか。それが蛭子に相当するのではないかとも思うのだ。分ける、というのは理解の始まりの一歩である。しかしそれをすると統合性が失われてしまうというのもまた事実ではないだろうか。