いま魅力のあるコンテンツは何か

いま世間で流行っている一番魅力のあるコンテンツは、ライブ配信と炎上だ。ここで言う炎上とは、たとえば2023年の1月に起きたスシローのぺろぺろテロ、およびそれに集中した批判のことを指している。

いかなる小説も漫画もゲームも、この二大コンテンツには歯が立たない。作家や漫画家がどれだけ一生懸命考え、努力しようとも、彼らの作品には可愛い女の子がやるライブ配信ほどの魅力は宿らないし、炎上している人に向かって石を投げるときのような快感も存在しない。それが現実だ。

ライブ配信や炎上といったコンテンツに共通しているのは、面白くないと言うことだ。そこに面白さはまったく存在しない。人が女の子のライブ配信を観る理由は寂しいからだし、炎上に加担するのは日頃から鬱積した不平や不満を解消したいからだ。漫画『チェンソーマン』や映画『シン・エヴァンゲリオン』を観て感動するのとは訳がちがう。

もう一つの共通点として無料であることが挙げられる。ほとんどのライブ配信を僕らは無料で視聴できる。また炎上もツイッターなりニュースサイトなりでコメントをつけるだけだから、やっぱり無料だ。

これは僕なりの推測であるが、おそらく今プロおよびプロを目指すクリエーターは、とても苦労していると思う。普通、漫画家や小説家は「面白い」ものを作ろうと試みる。でも今のユーザーはそういうのは求めていない。むしろ面白いものに背を向ける。しかも有料のものではなく無料のコンテンツを摂取する。クリエーターは彼らからなかなか代金を頂戴できない。

僕も創作をしていたので、一応クリエーターだった。アマチュアだし、まったく人気はなかったが、自分なりにけっこう真剣に頑張っていた。だからコンテンツを作る喜びや苦労は分かる。そういうわけなので、ここで少し、今あるべきコンテンツがどのようなものかということについて考えてみたい。

まず僕が言いたいのは、今の読者やユーザーが愚かであるという見方は間違いだ、ということだ。彼らに物を面白がる能力がないからつまらないコンテンツが人気を博すのだ、という見方をしていると、いつまでたっても優れたコンテンツは作れない。まず我々は彼らに寄り添う必要がある。自分でライブ配信を何時間も見たり、あまり褒められたことではないが、炎上している人を叩いて実際に自分がどんな気持ちを味わえるのかを確認する必要がある。

彼らを観察することも大事だ。ツイッターやブログやはてなブックマークなどを見て、どんな人がライブ配信を観たり、あるいは炎上に加担しているかを読み解くのがいいだろう。そこでは単なる情報収集だけでなく、想像力も必要とされるに違いない。

ここからは僕の考えるユーザー像と、あるべきコンテンツの姿を述べる。

今の人たちは追い詰められている。余裕がない。だから物を面白がる姿勢というものを取れない。フィクションの話に没入するということができない。そう言えばライブ配信と炎上の共通点として、架空の出来事ではないという点も挙げられる。両方ともまったくの現実だ。

また、それでいて彼らは心から自分の苦境を見つめ、絶望し、せつない思いを抱くことも少ない。彼らは自分で自分が分かっていない。自分でもよく分からないけど何か満たされない、心のどこかから焦燥や疲労感が押し寄せてくる、という状態に彼らはある。だから自発的に物語に身を寄せていくこともないのだ。人は本当は、にっちもさっちもいかない現実と相対したら、ただ空想に逃げるほかはないはずなのだ。まったく身動きが取れなくなったら、頭のなかへ逃げこむほかはないからだ。

でもそれをしない。本気で空想にふけったり、物語に没入することもない。だから現実的な富という意味においても、心の豊かさという意味においても、彼らは満たされていない。正体不明の化け物に寄生されているような感じだ。それは不透明で、なかなか振り払うことができない。

だから作るべき物語は、その導入で、まず読者の空想力を引き出すツボを刺激してやらなければならない。それも出来るかぎり早く、的確にツボを押さなければならない。そもそも物語に入っていく力が彼らにはないので、それを物語の冒頭で与えてやらねばならない、というわけだ。これはけっこうな難関だが、やりとげないと読者は先を読んでくれない。

次はそうやって獲得した猶予の中で、読者に切なさを感じさせることだ。それも彼らが自覚するのを避けてきた切なさを力いっぱい叩きつけてやる。ガツンと自覚させてやる。これがヒットのためにいちばん大事なことだと僕は思う。

ではその切なさの正体とはなにか。特に読者が自覚を避けてきた切なさとはいったい何なのか?

それは自己の願いが叶わない悲哀のことだ。大いなる望みを持ち、それに向かって行動を起こし、あらゆる手を尽くしているにもかかわらず、まったく願いが叶わないことが判明するときの切なさのことだ。それも今だけでなく、未来においても絶対に叶わないということが確定するときの切なさだ。

しかし読者はなぜそうした切なさを避けて通ってきたのだろうか。彼らには願いというものがないのだろうか。将来の希望に向かって全力で突き進んだ経験がないのはなぜだろう。あるいは、みんなが慎ましい、草食系のライフスタイルをよしとしているのだろうか。それで彼らは救われているのだろうか。

違うだろう。いまは多くの人が貧困に加えて、なにかしらの大きな心理的圧力によってそもそも望みを持つこと自体を封じられている。仕方なく自分で自分を抑圧し、大きな願いを持たないようにと努力している。そうした人が多いというのが僕の現状認識だ。

そういう状態は、とても苦しい。それは明らかで、分かりやすい苦しみではない。正体不明の亡霊にとりつかれて、ずっと体が不調であるような状態だ。医者にいっても解決されない。原因がなんだか分からない。心がつらい。ときおり無性に焦ってしまうのだが、いったい自分が何に焦っているのか分からない。

今のクリエーターはそういう人たちに訴えかけるものを作るべきだ。複雑にもつれてしまった心の状態を解きほぐすのに役立つものを作る。あるいは、せめて慰めとして機能するものを作る。それがなすべきことだと僕は思う。