『黒猫』と『アッシャー家の崩壊』を考える

僕はホラー物が好きでない。小説も漫画も映画もホラー物は鑑賞しない。怖いことを楽しいと思えないのと、どうもホラーは純然たるエンターテイメントでしかないという印象があって、興味が湧かないのである。

ポーの『黒猫』も『アッシャー家の崩壊』も初読は楽しかったが、それだけの印象でしかなかった。だから僕は頭の中の「どうでもいい物」に分類する箱にポーの短編小説をすべて放り込んで、存在を忘れてしまった。彼の詩はとても素晴らしく、何度も読み返したものだが、短編小説には深い興味を抱けなかったのである。

だが最近心のどこかから「ポーの短編小説について考えろ」という警告が飛んできたので、考えてみることにする。正直言って全然興味を抱けないのだが、どうにか無理をして考えてみる。

これら二編の小説を読んでまず気がつくのは、主人公が死者の復活を恐れているということだ。キリスト教は死者の復活を尊ぶので、ここでは通常の道徳と逆のことが起こっていることになる。死んだ人間が復活するなら奇跡として喜んで良さそうな気がするが、全然そうならないのである。『黒猫』なら猫の鳴き声を殺した相手の声と錯覚して「なーんだ。あいつが生きてるなら俺、殺人の罪犯してないじゃん」と喜んで壁を掘り起こしても良さそうなものだし、 『アッシャー家の崩壊』でもマドラインが生き返ったと小躍りして皆でパーティを開いても良さそうなものだが、物語はそういう展開を見せない。これはたいそう不思議なことだ。どのようにして読者の心理状態を操作して、そのような奇異な結論を引き出したのかが、本稿における我々の興味の対象となる。

小説を書くことは読者の心理を操作する行為に他ならない。以前解説したようにセルバンテスは読者の心理を非常に強引に操作するテクニックを構築し、それで『愚かな物好きの話』という短編を書いた。ポーも何かしら同等の技法を独自に作成して短編を書いたのではないかというのが僕の推測である。

その技法について考察する。両者に共通しているのは、執拗に罪悪感と怯えを押し出していることだ。罪悪感と怯えを感じた主人公は(つまり読者は)、意識上では罪を隠すことを目論むようになる。誤魔化して、犯した罪をなかったことにすることを企むのである。しかしそのような心理状態を言葉で明らかにされてしつこく繰り返されると、読者はしだいに無意識下で罪からの解放を望むようになってくる。これはセルバンテスの技法の効果である。しかし彼は極度に怯えているので、自分から神の前へ身を投げ出して罪を告白することはできない。『罪と罰』のようには行かない訳だ。彼が本当に望むことは罪の方から襲来してきて自らに罰を加えることである。

したがって殺したはずの死者が甦ってきて主人公を罰する。これこそが最もストレートで劇的な方法だからである。これによって読者の倫理的問題は解決される。そう考えると死者の復活はキリスト教においてもポーの短編においても倫理的な最終目標なので、あながち遠い距離にある訳ではないのかもしれない。

以上の考察から、『黒猫』も『アッシャー家の崩壊』も単なるエンターテイメントでしかない理由が分かってくる。そこには主人公の葛藤がわずかしか見当たらないのである。やはり葛藤が大きくなければ得られる感動も小さいものとなる。

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