『高い城の男』を読む

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』を読んだ。面白かったので、それについて書く。

物語の名作というのは多くの場合、読者に対して優れた問いかけをする。もっと言うと、読了後にもやもやした気持ちを抱かせる。読者はその作品の登場人物や事件について思いを馳せずにはいられない。ついつい「彼らはその後どうなったんだろう?」と思い、考え込んでしまう。そういう小説こそがよい小説だと言える。

この観点から言えば『高い城の男』は本物の傑作だ。我々は本を閉じたあと、こう考えざるを得ない。フランク・フリンクやロバート・チルダンの商売は上手くいくのだろうか? 田上信輔は失脚せずに無事やっていけるのだろうか? ドイツは本当に日本に侵攻するのだろうか? そういうことを考えずにはいられない。そして何よりもジュリアナの易によって得られた結果――「ドイツと日本が戦争に負けたことが真実である」というのはいかなる意味なのか。それを考えずにはいられないのだ。

本作のストーリー構成はかなり複雑である。ロバート・チルダンとフランク・フリンクの物語。田上信輔の物語。ジュリアナの物語の三本構成になっている。前二本が基盤となる話であり、最後の一本はすべてをまとめ上げるための話である。

ロバート・チルダンとフランク・フリンクの話は一見すると単なる商売の話に思える。しかし実は古い物を否定して新しい芸術を造っていくという話であると分かってくる。ある人物が史実性の危うさを指摘したり、模造品の流通が指摘されたりなどして、過去とはそもそもなんなのかという問いかけが物語中でなされる。過去とは果たして確かなものと言えるのか、確かなものでないならそもそも過去に価値はあるのかという問いかけがなされるのだ。最終的にチルダンはフランクの製品を選択するが、そこには、本物の価値とは現実に立脚して新しい未来を切り開いていく意志にこそあるのだ、というメッセージが垣間見える。

田上は自分の保身よりも、正義感を取った行動を見せる。彼は骨董品のコルト・四四口径でSDのメンバーを射殺して手崎将軍を守り抜く。それだけなら正当防衛でことは収まるが、彼はさらに、汚い手口をとったドイツの領事・ライスを一喝して追い返す。それにより自分の地位を追われる危険を冒しても彼はそうしなければならなかった。自己の良心にもとづいて。

こうした二本の話は結局のところ、善とはなにか、というテーマに収斂する。善とは、勇気をもって悪を拒むことだ。また、過去に囚われず、誰にも認められないという恐怖を乗り越えて、新しい価値を生み出していくことだ。それも、何の後ろ盾もないただの一個人がそれに取り組むということなのだ。それこそが善なのであり、これらの価値観こそがナチスや大東亜共栄圏のような悪を打ち砕く唯一の武器なのである。

そうした清々しい意志が、問いという形式をとって我々の前に提示されている。だからこそ『高い城の男』は優れた文学なのである。