『女のいない男たち』を読む

村上春樹の『女のいない男たち』について書く。

この本は短編集だが、互いに関連のある話が並んでいる。短編は明確な狙いのもとに順番が定められており、一本目の『ドライブマイカー』で穏やかなスタートを切って、五本目の『木野』でクライマックスを迎える。六本目の『女のいない男たち』はおまけのようなものなので、今回の分析の対象からは外す。

分裂というテーマ

『ドライブマイカー』ではこの本のテーマがずらりと並べられる。男の意識が分裂しているということ。異性のパートナーの裏切り。演技などである。

特に大きなテーマが分裂であり、これは『木野』までのすべての短編で中心的に取り上げられている。『ドライブマイカー』では運転時の意識の在り方を通して男の心の分裂というものが示唆される。『イエスタデイ』では木樽が「おれの中には分裂みたいなものがあるんや」と言い、『独立器官』にも自己分裂という言葉が出てくる。また『木野』でも蛇の心臓を二つに切り裂くという表現が出てくる。

例外は『シェエラザード』のみであり、この短編ではむしろ二つのものがくっついている、区別ができないということが強調される。すなわち、羽原はシェエラザードの語る物語が作り話か本当なのか分からず、彼女が性行為のどこまでを職務とみなし、どこからを個人的な楽しみとしているか分からず、性行為と物語の二つは分かちがたく結びついてしまっている。この場合、分裂の反対は結合というよりも、癒着と言った方がニュアンス的には正しいだろう。

こうした一連の流れは次のように捉えることができる。すなわち最初の短編ではテーマの示唆というレベルに留まるが、二本目では分裂という単語が初めて示され、明示的に語られるので、よりテーマが強調されていると分かる。しかしその帰結は男女の普通の別れであり、再会の可能性も残されているので、悲劇とは言えない。これに対して、三本目では男女の別れが恐ろしい結末に帰着するので、分裂のテーマはさらに増大していると受け取れる。裏切りがあり、死があるのだ。つまり一本目から三本目までは、分裂のテーマは単調に成長していってると言えるだろう。

しかし四本目では突然流れが変わり、逆転する。癒着が前面に押し出されるのだ。これはポップソングでいうところの、サビ前に用意された無音の瞬間のようなものだ。クライマックスをより盛り上げるために、順方向ではなく逆方向の話が置かれているのである。人が高くジャンプするために身を屈めるようなものだ、とも言えるだろう。

こうして『木野』で読者のテンションは最高潮に達する。ここでは惜しげもなく分裂と癒着という楽音が、激しく打ち鳴らされる。すなわち木野は妻と離婚し、妻は浮気相手の男と結合し、木野は怪しげな女と性的につながり、男と女の来店が性行為の前なのか後なのか木野には区別ができず、蛇の心臓を二つに切り裂くということに言及がなされ、両義的──ひとつのことが二つの意味に分かれてしまっている──という言葉が何度も登場する。

空白と真なる望み

『木野』にはくりかえし空白ということが出てくる。木野は絵葉書の空白に必死になって伯母へのメッセージを書き込み、カミタは「空白を抜け道に利用するものもいる」と主人公に警告し、木野は作品の終盤で次のようなことを悟る。「両義的であるというのは結局のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ」。

空白というテーマは、自己の深くに内在している本当の望みというテーマと関連がある。望みというテーマが初めて登場するのは『独立器官』においてである。『独立器官』は村上春樹の短編『かえるくん、東京を救う』のセルフ・パロディだ。以前に『かえるくん』についてはていねいに解説したので、まずそちらの記事を参照いただきたい。

riktoh.hatenablog.com

『かえるくん』では、主人公・片桐は自らの望みの再生に挑戦するが、できずに自滅する。『独立器官』もその筋は同様である。渡会医師は人生で初めて本気の恋をして、自らの正体について思い悩む。

「私から美容整形外科医としての能力やキャリアを取り去ってしまったら、今ある快適な生活環境が失われてしまったら、そして何の説明もつかない裸の一個の人間として世界にぽんと放り出されたら、この私はいったいなにものになるのだろうと」

ここで作者が本当に言いたいのは実は別のことである。たとえすべてが奪い去られて裸になったとしても、真なる望みが存在の中心にありさえすれば、人は「自分が何者なのか」という問いを抱かずに済む。その問への答えをしっかと持っていられるということなのだ。

しかし渡会は自らの望みの重さに耐えきれず自滅する。望みの知覚は火山の噴火にも等しいものがあり、爆発的なエネルギーを生み出してしまう。それは怒りにも似た感情だ。渡会はそのすさまじい力に耐えられず、抑えつけることに全力を傾け、疲弊して死ぬ。渡会は女に裏切られたショックで亡くなったのではない。女に裏切られたことを悟った瞬間、彼は真の自己に目覚めたはずだが、その本来の生き方は暴力的なものを孕んでいた。彼はあくまでもそれを拒否したために死んでいく。

 渡会は首を振った。「私にもわかりません。彼女に対する怒りでないことは確かです。でも彼女に会っていないとき、会えないでいるとき、そういう怒りの高まりを自分の内側に感じることがあります。それが何に対する怒りなのか、自分でもうまく把握できません。でもこれまでに一度も感じたことのないような激しい怒りです。部屋の中にあるものを、手当たり次第に窓から放り出したくなります。椅子やらテレビやら本やら皿やら額装された絵やら、何もかもを。それが下を歩いている人の頭にぶつかって、その人が死んだってかまうものかと思います。(中略)
そのせいで誰かを本当に傷つけてしまうかもしれません。私にはそれが怖いんです。それならむしろ、私は自分自身を傷つけることの方を選びます」

『シェエラザード』ではシェエラザードという女が男の空き巣に入る。もちろん家の中には誰もいない。つまり彼女は空白の中へと潜り込む。またシェエラザードが空き巣に入った動機は男への恋慕なので、この短編では望みと空白というテーマが密接な関係にあることが判明する。

空き巣は言うまでもなく犯罪である。暴力的なものだ。だからそういう点において、『独立器官』と『シェエラザード』は似通っているのである。ただし渡会医師が実際にみずからの望みを発露させたのに対して、シェエラザードの場合は異なる。彼女の願いの発露はあくまでも自己の内側においてとどまっており、世間に露見する前に閉じられた。したがって渡会医師は死に、シェエラザードは学生として平穏に過ごした。

作中でシェエラザードは空き巣に入った男の部屋で恋の空想をするが、そこから分かるのは、彼女が本当に忍び入ったのは物理的な部屋ではなく、自己の心の内奥にある空白なのだ、ということだ。その空白の部屋は『木野』においても提示される。

木野の内奥にある暗い小さな一室で、誰かの温かい手が彼の手に向けて伸ばされ、重ねられようとしていた。木野は深く目を閉じたまま、その肌の温もりを思い、柔らかな厚みを思った。それは彼が長いあいだ忘れていたものだった。ずいぶん長いあいだ彼から隔てられていたものだった。そう、おれは傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋の中で。

ところで空白は、『木野』の次の一文によって分裂というテーマと結合される。空白は望みと接しているので、分裂は望みと接したテーマであると分かる。これは何を意味しているのだろうか。

両義的であるというのは結局のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ。

そもそも分裂というテーマは、文学における普遍的な構造のひとつである。あるキャラクターが二つの異なる方向性の力に引き裂かれている。例えば『金閣寺』の主人公は、美に陶酔している自分と、美と一体化できない自分とに引き裂かれている。『スワンの恋』の主人公は、恋人やサロンで送る安逸な生活と、真摯に芸術を研究する生活の二つに引き裂かれている。エヴァンゲリオン新劇場版の主人公は、父性と母性という二つの道に引き裂かれている。『ドン・キホーテ』の主人公は、騎士道物語を肯定する力と否定する力とに引き裂かれている。

こうした図式の裏にあるものとして、願いがある。上記の主人公たちは二つの異なる願いによって引き裂かれている。実現が易しい願いと困難な願いの間で彼らは分裂してしまっているのだ。

以上の基本的な事項を確認した上で、もう一度さきほどの文に戻ろう。今度は前後も引用してみる。

木野はその訪問が、自分が何より求めてきたことであり、同時に何より恐れてきたものであることをあらためて悟った。そう、両義的であるというのは結局のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ。「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は噓だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。

木野は傷ついた自分と傷ついていない自分とに引き裂かれている。もちろん前者こそが真の自己なのである。しかし彼は傷ついていない自分から傷ついた自分へとすんなり移行できない。彼は中間にある空白という落とし穴にはまり、そこで立ち往生してしまっている。

だが空白は虚ろなだけでない。それは彼が新しい自己に生まれ変わるための場所でもある、「内奥にある暗い小さな一室」だ。いや、卵だ。彼は卵の殻に守られて内側にいる。激しく扉をノックする異形の者は卵の殻の外側にいる存在だ。ここで啐啄の機という言葉を我々は思い出す。適切な時が来れば雛はくちばしでもって自ら殻を破らなければならない。だがその時が来るまで木野はいま、傷を癒やすために殻に引きこもらなければならないのだ。

『木野』における記憶と表現

記憶は何かと力になります。

カミタのこの警告は、『木野』における表現の効果を語っている。すなわち「いくつかの個人的な記憶が、浜辺の棒杭に絡んだ海草のように、無言のまま満ち潮を待っている」という一文は、前の短編の『シェエラザード』のやつめうなぎの挿話を受けたものであり、次の伯母の発言は、木野が予定より一日早く帰ったところ妻の浮気を発見したことを受けている。

「そう、蛇というのはもともと両義的な生き物なのよ。そして中でもいちばん大きくて賢い蛇は、自分が殺されることのないよう、心臓を別のところに隠しておくの。だからもしその蛇を殺そうと思ったら、留守のときに隠れ家に行って、脈打つ心臓を見つけ出し、それを二つに切り裂かなくちゃならないの。もちろん簡単なことじゃないけど」

また、すでに述べたが、シェエラザードが空き巣に入った男の部屋を受けて、「木野の内奥にある暗い小さな一室」という表現は成り立っている。

読者が記憶している印象深いエピソードを、間隔を置いてから、似てはいるものの微妙にずれた形でふたたび提示すると、読者は大きなショックを受ける。村上春樹はこの短編集でそのような技法を高い精度で実演してみせた。

こうしたテクニックにはプルーストの影響が見られる。次は岩波文庫版の『失われた時を求めて』の十三巻から。

口を拭うのに使ったナプキンは、私がバルベックへ着いた翌日、窓の前で身体を拭くのにひどく難儀したときのタオルと同じく、硬くて糊のきいたものだった。

これは四巻の次の文章から拾い上げてきたものである。プルーストも似たような手法を実践しているのだ。

私は、ホテルの名入りの糊のきいた硬いタオルを手に、身体を拭こうと無駄な努力をしながら、……

プルーストと村上の差異は、ずれにある。プルーストが土中を掘り返して直接的に記憶そのものを取り出してくるのに対して、村上はあくまでも表土から埋もれた記憶にアクセスする。彼は賢者の杖で地面を叩く。すると埋もれた記憶が特殊な音を発し、それは土を通り杖を通って地上に声を上げる。読者はその声を聴いて心を動かす。そのとき記憶は半分顔を出し、半分隠れている。夕日や浜辺のような境界線上の魅力が、そこには確かにある。つまりある意味では村上はプルーストの上を行っているのだ。

演技について

『ドライブマイカー』で強調された演技というテーマはどこに行ったのだろうか。最後に、それを考えてから本稿を閉じる。

この短編集の特徴として、テーマの自覚というものが挙げられる。分裂や演技といったことについて、言及が抽象的であり、自覚的なのだ。そこがすでに演技的であると言える。

また、タイトルが『女のいない男たち』というのは示唆的である。村上春樹はこれまで何度も男が女性に裏切られる話を書いてきた。なぜ今更それを端的に示す『女のいない男たち』という文言をタイトルに持ってくるのか。少なくとも村上ファンは不思議に思うはずである。

実はこれは、女のいない男たちという状況だけを自覚的に中心に据えて、言わばセルフ・パロディの要領でさまざまな作風の短編を書いてみようという試みなのである。『ドライブマイカー』と『木野』はいつもの村上春樹のシリアスな短編。『イエスタデイ』はオーソドックスな青春物。『独立器官』はホラー短編。『シェエラザード』は犯罪物である。

こうした変化の付け方が演技ということなのだと捉えると、得心がいくのである。