『変身』と『かえるくん、東京を救う』

フランツ・カフカの『変身』と村上春樹の『かえるくん、東京を救う』について書く。村上春樹の短編は『変身』の優れた解説になっている。

二つの小説の共通点

人は毎朝起きて出勤しなければならない。このような多くの人が体験している、しかし解決ということが不可能な出来事に対して物語を与えてやると、それは優れて人の心に響くものとなる。カフカの『変身』の場合は「朝の出勤」に焦点を当てていると考えられる。それが導入部になっているので読者としては興味を持ちやすい。というのも心地よい眠りから目覚めてベッドから這い出し、面倒な仕事に行かなければならないあの実に嫌な気持ちを、我々は生活の中でくりかえし感じているからだ。

話はそのまま仕事と、仕事から得た収入で家族を養うということに繋がっていく。家族といっても妻子ではなく、自分の両親や妹だ。彼は自分の生み出したもの・得たものを守っているのではなく、自分を生み出した存在に仕えている。仕事はつらく、主人公グレゴールの魂を締め上げ苦しめている。ただしその中でも妹の存在だけは希望として、彼の胸のうちに残されている。彼女に音楽の勉強をさせてやるというのがグレゴールに唯一残っている純粋な願いだ。

このような設定を、村上春樹の『かえるくん、東京を救う』がほぼ忠実に引き継いでいるので、比較しながら読み進めてみよう。小説というのはともかく文字ばかりがずらずら並んでいるものだから、丸ごと取り扱おうとしてもどこから切り込んでいいのか検討がつかない。しかし比較という形にすれば共通部分や差異の箇所だけが問題になるので、そこが橋頭堡となって攻略がしやすくなるのである。

まずは両作の共通点を挙げていく。『かえるくん』も『変身』同様、一行目から異形の存在を出現させている。開始の合図とともにいきなり読者に対してジャブを浴びせる格好は同じだ。その異形の存在は物語の前提として置かれており、出現した経緯の説明はなされない。また、主人公がとてもきつい職に就いている。彼らはつらい労働の代価として得た収入で家族を養っているが、作中で家族に感謝される様子は一向に見られない。その家族は自分の妻子ではなく弟や妹、あるいは両親である。作中で何度も金の話がされるところも似ている。そして物語の大筋としては、主人公が苦しむ方向に進んでいく。

これらの具体的な作中の事実から、『かえるくん』は『変身』を下敷きにして書かれているという推測が成り立つ。ただしこれだけでは単なる推測にとどまるので、可能なら証拠をつかむことで正しさを担保したい。いつでもそのような証拠が見つかるとは限らないが、今回はかなり有力なものが見つかったので、次に示す。

次に錠へさしこんであった鍵を口にくわえて回してみようとした。ところが、悲しいかな、一本も歯のないことがわかってみると、何で鍵をつかんだらいいのか見当もつきかねる。

 

いろいろな食事のときの物音にまじって、絶え間なく噛みくだく歯の音が聞こえてくるのが、グレゴールにはなんだか異様にかんじられる。まるで食べるためには歯が必要なことと、歯のないあごはどんな美しい形をしていても役に立たないことを、ばりばり噛む音で歯のないグレゴールへ見せつけてやらねばといわぬばかりなのだ。

(フランツ・カフカ著 中井正文訳『変身』)

上記の箇所を踏まえて書かれたのが『かえるくん』の次の文だ。どちらも「歯がない」ということが明記されている。

かえるくんにはきんたまだけではなく、歯もなかった。

(村上春樹著『かえるくん、東京を救う』)

このようにはっきりと符号する文章を書いているのは、読者に対する作家なりの目配せ、合図と言える。これで『かえるくん』が『変身』を参考にして作られた小説であるということが確かめられた。比較対象としてはやはりそういう作品を持ってくるのが一番おもしろいし、理解も深まる。

二つの小説の差異

これら二つの作品の間のもっとも大きな差異は、苦しみに対する主人公の態度だ。グレゴールは一見苦しんでいるようだが『変身』には終始ユーモアが登場するので、苦しみと正面から向かい合うことは回避されている。だがその結果、グレゴールは大きな川の流れに逆らうことができないような形で運命に引きずられていき、最後には命を失ってしまう。彼はほとんど抵抗しない。抵抗というものが出来ない人間なのだ。一方『かえるくん』の主人公・片桐は破滅するまで自分自身の苦しみと向き合う。その姿勢はきわめて真摯なものだ。

変身のユーモアは特異である。具体的に見ていこう。

さてと、自分が乗る汽車は五時だから、そうだ、まず起きなくてはなるまい。

 

「ところで……」と、グレゴールは口をきりだしたが、いま冷静さを保っていられるのは自分ひとりだということを十分に意識した上のことだ。「わたしはすぐ着換えをして、商品見本を鞄へつめこんで出発しますよ。出発さえしたら文句はないんでしょうな。さて、支配人さん、わたしが強情っぱりどころじゃなくて、たいそう仕事好きな人間であることがよくおわかりでしょうね。」

これらの箇所の面白さは、グレゴールが自分が虫になっていることを考慮せずに発言しているという所にある。周囲は彼が虫であることを認識し、かつ問題視しているので、そのギャップが我々に笑いをもたらす。(正確には、グレゴールは自分が虫になっていることを知っており、かつそれが問題であることも分かっているが、重大なレベルではないと受け取っている。)

ひどい自己嫌悪と、不安におそわれて、彼はそのへんを這いまわりはじめて、あらゆるものの上を這った。壁や、家具や、天井などをさんざん這いまわったあげくに、部屋全体が自分のまわりをぐるぐる回転し出したと思うと、彼は絶望状態に陥ってしまって、とうとう大きなテーブルのまん中へ落っこちた。

ここの面白さは、一つ目に、登場人物がアニメ『トムとジェリー』のどたばたアクションのように、あちこちを猛スピードで駆け巡ったあげく、徒労に終わってしまっているという点にある。これはベーシックなタイプの冗談である。そのようなジョークを飛ばしているという姿勢の裏には、主人公が虫になってしまっているという恐ろしい前提への、奇妙な無関心がある。もう一つの面白さとして、そのような無関心があると言えるだろう。  

――そのとたん、そう力をこめずに投げつけられたものが、彼と紙一重のところへ落っこちて、ころころと目の前へころがった。りんごだ。すぐ二番目のが、自分を目がけて飛んでくる。グレゴールはあまりの怖ろしさにじいっとその場に立ちすくんで、身動きさえできなかった。父親がりんごの弾丸で自分を砲撃しようと決心したからには、いくら走って逃げたところで無駄だった。

グレゴール・ザムザは投げられたりんごによって傷を受け、最終的にそれがもとで息絶える。ナイフで刺されたとか拳で殴られたとかではなく「りんご」という点がいかにも人をおちょくっているようで、そこがカフカ流ということだろう。父親に殺されることでさえ、カフカにしてみればよく出来たジョークに過ぎない。

まとめると、『変身』のユーモアの要諦は、自分の傷や苦しみに無自覚であるということだ。知っている上でなお冗談を言って、一時的な落ち着きを確保しようとしているのではない。血が出ているにも関わらず、まるで痛みもないし、そもそもその出血に気づいてすらいない。それがカフカの笑いなのだ。『変身』は笑える小説なのである。

しかし笑ってばかりいても事態は解決しない。よくよく『変身』という小説を反省してみると、グレゴールは驚くほど受け身である。事態は確実に一歩一歩悪くなっていく。抵抗はもちろん、逃げることさえしない(逃げないというのは『城』の特徴でもある)。そして最後には死んでしまう。

率直に言って、グレゴールが苦しんでいる理由は第三者から見れば明らかだ。彼は家族という重荷をこれ以上背負いたくないのである。仕事という負荷が、心のキャパシティを越えてしまったのだ。虫になったのはグレゴールの意志によるもので、彼はいわばストライキをしているのである。しかし彼はそれを知覚することができない。それほどまでに自分自身の願いや、あるいは現状への怒りや不満といったものを、封じられてしまっているのである。他の誰でもない、まさに自分自身の心の在りようを、彼は自覚できないでいる。家族の要求を聞くあまり、自分自身の内なる声には耳をすますことができなくなってしまったのだ。

意識の上では仕事に行きたい。しかし無意識は固く出勤を拒んでいる。グレゴールはこのような引き裂かれた状況に置かれている。

最後に家族全員が手に職をつけているのは注目に値する。要するにグレゴールはそこまで働く必要などなかったのだ。

しかしこのような分析は力を持たない。「分析」をしたところで、今ここで問題となっているものに対して、その本質に働きかけることはできない。というのも、まさに小説の主人公が無自覚だからだ。彼には見えるべきものが見えていない。自分自身の「願い」がない。他者の限度を越えた要求を追い払う「怒り」がない。いや、本当はあるはずなのだが、心はそれを見ることを徹底的に拒否している。『変身』においてグレゴールが虫になった経緯が問われないのは、そのような無自覚性と深い関連がある。

だからやるべきことは、まずそこに息を吹き込んでやることだ。

『かえるくん』は、グレゴールの人生をより良いものにしようとして、もう一度生き直した小説だと考えられる。片桐はかえるくんを通して、やってくる地震の「震源地」を突きとめる。それは片桐の勤める「東京安全信用金庫新宿支店の真下」なのだ。言い換えれば、片桐の怒りがみなもとになっている。『変身』では虫になった経緯が問われなかったのに対して『かえるくん』では地震の正体を追求している。これは明確な差異であり、ひとつの前進だ。しかし片桐は後もう少しというところでみみずくんと対面できずに終わってしまう。このことは、彼は自己の怒りや願いを直視しようと頑張ったのだが、やはり不可能に終わったのだと受け取ることができる。また、かえるくんは地震を防ごう、鎮めようとして戦った。しかしその勝利によってもたらされた結果は虚しい。かえるくんもまた滅び、片桐が病床に追いやられたということだけだ。結局のところ、自己の怒りを我慢しようとしても事態は解決しないということが、ここでは示唆されているのだと思われる。

『変身』のディティール

『変身』の細部を見ていく。以下に示すページ数は、角川文庫の中井正文訳による。

まず、家の内外ということについて考える。実はグレゴールが死ぬまでは家の外の描写はほとんど出てこない。グレゴールが死んでから初めて家族たちは家の外へ出て行く。この作品は三人称で、視点はグレゴールに合わせて書かれており、グレゴールの死後は視点は家族のものとなる。ただ三人称であるし、家族はグレゴールが生きている間も外で働いているのだから、外にカメラを移すこともできなくはないはずである。しかし作者は決してそれをしない。あくまでもグレゴールが死んでから、登場人物は外へと移動する。もちろんそれは家族の解放感を演出するための作意であろう。

婦人の絵に注目してみる。これはP6で、つまり序盤で初登場するが、グレゴールの部屋の壁にかかっている。その額縁はグレゴール自身の手で作られた物であることがP20で、母親の口から語られる。それから、家具が妹の手によって運び出される段階において、再び婦人の絵は登場する。グレゴールがこれだけは持ち去られまいとして、絵にしがみついて家族に抵抗するのだ。

このことは、外の社会へ異性を求めようとしている気持ちが、グレゴールの心にはまだ残っていることを表していると受け取れる。それは、このような婉曲的な形でしか表現できないほど掠れており、失われつつあるが、それでもまだ確かに残っているものとして扱われているのだ。このようなテーマが、最終的には作品の末尾の、両親がグレーテのために花婿を探そうと決心する箇所に結びついていると考えると、納得がいくだろう。作者はこのテーマを最終的に皮肉なものへ発展させ、落着させている訳である。

グレゴールには歯がないということがP28で語られる。彼は食べ物の嗜好が人間の時と変わっているということも語られる。この話は最終的に次の箇所に発展する。三人の間借り人が食事する場面だ。

いろいろな食事のときの物音にまじって、絶え間なく噛みくだく歯の音が聞こえてくるのが、グレゴールにはなんだか異様にかんじられる。まるで食べるためには歯が必要なことと、歯のないあごはどんな美しい形をしていても役に立たないことを、ばりばり噛む音で歯のないグレゴールへ見せつけてやらねばといわぬばかりなのだ。

グレゴールはこれを受けて思う。「この連中は実によく食うなあ。あんな真似をしたらぼくはしんでしまう」。

このことはグレゴールが外の社会に適合できなくなっていることを示唆していると受け取れる。彼の心は外部の異物をとりこんで、消化するということができなくなっているのだ。それほどまでに彼は弱っている。事実P84から、すなわち終盤になって家族以外の人間が家の中に立ち入ってくる――外部にある食べ物を胃の中にとりこむということと対応している――のだが、彼の体はその時にはすでにすっかり弱っている。このようにドラマの進行は足並みをそろえて行われている。この歯がないという描写は、最終的にグレゴールの死という事態に発展する。

「ねえ、ごらんなさい。兄さんはなんてまあ、やせてたんでしょうね。もうながいあいだずうっと、なんにも食べようとしなかったんですからねえ。せっかく食べ物を運んであげても、そっくりそのままで、また持って帰る始末だったんですからね・・・・・・」

他に見るべき点としては、次の箇所がある。

「ちょっと・・・・・・聞いてごらんなさい」と、隣室で支配人が言っている。「息子さんが、鍵を回している」
その声がグレゴールをたいそう元気づけた。
「グレゴール、元気を出せ。そら、こっちのほうへ! しっかり錠前をにぎるんだ!」
と、父親も母親も、みんなが声援してくれたっていいところだ。

これはもちろんグレゴールの心が弱っており、人の助けを必要としていることを示唆していると受け取れる。P51-52で、グレゴールが仕事で得た金を家族へ渡すことが語られるが、彼は感謝されない。この「声援」は、『かえるくん』にも出てくる。片桐はかえるくんから、応援するよう要求されるのである。

こうしたシーケンスは、最終的に次の箇所にみちびかれる。これは父親のことだ。やはり事態は皮肉な方向への発展を見せるのである。

二人の女に左右から支えられて、まるで自分のからだが自分でひじょうな重荷であるかのように、ぎょうさんぶって起きあがり、女たちに戸口のところまで引き立てられると、そのへんで合図をして女たちを押しとどめ、そこからは一人で歩いていくのである。たが、母は裁縫道具を、妹のやつはペンをその場へほうっておいて、いそいで父の後を追いかける。さらに面倒をみてやるつもりなのだ。

また、家具ということも見逃せない。妹がグレゴールの部屋の家具を外へと運び出そうとするのである。グレゴールはこのことを恐ろしく思う。

なにも異常なことが起こっているわけじゃなくて、ほんの二つ三つの家具を移動しているだけなんだ、とグレゴールは何べんも自分に言いきかせてみたのだが、女たちが行ったり来たりする気配だの、彼女らの小さなかけ声だの、家具が引きずられるときの、きしる物音がごっちゃになって、やがて彼は自分でもそう思ったのだが、まるで四方八方から押しよせてくる大混雑のような恐ろしい印象をうけた。彼は固くなって頭と足をちぢめ、からだを床へぴったりへばりつけて、もうとても我慢できない、もうだめだ、と無抵抗のまま自分に言いきかせなくてはならなかった。女たちは彼の部屋をだんだんからっぽにした。愛着のふかい家具はみんな運び出された。

家具を奪われることは人格を奪い去られることにつながっている。そのことにグレゴールは恐怖するのだ。

この話も他と変わらず、皮肉な方向への発展を見せる。すなわち終盤で、彼の部屋は不要な物を押し込む場所として扱われてしまうのである。

以上の読解から分かることがある。すなわちカフカは、本当に書きたいものへ向かって、漸近をする。彼は一足飛びに答えにたどりつくことができない。でも別に問題ないと彼は考える。彼は深く目をつむり、無意識から何かが浮かび上がってくるのを待つ。例えばそれは婦人の絵だったりする。その小さなモチーフが何を意味しているのか、彼は当初知らない。それをカフカは「とりあえず」原稿に書きつけてみる。回ってきたボールをどうやってゴールまで運ぶかというプランを、彼は考えない。彼は次の展開にのみ心を集中する。カフカは与えられたモチーフを少しずつ発展させるのだ。そうして最初はかすかだった音が、次第にメロディーをなし、いつのまにかそれは他のモチーフとも絡み合って、壮大な音楽へと成長していく。それが彼の方法論なのである。