コスタリカ307

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因果関係というテーマ

本稿はこちらの記事から続いている。

riktoh.hatenablog.com

 因果関係について

『多崎つくる』という物語において主人公に与えられる問いは、「友人に絶縁された理由は何か?」というものだ。これは因果関係を把握するという問題に等しく、この種の問題意識が本作のあちこちに登場しているので、見ていくことにしよう。

まず確認しておかなければならないのは、この種の問いに対して本作は通常の意味での論理的な解答を与えてはいないということだ。そのことを宣言するように小説の前半に置かれているのが、次の一節である。

その大半は無害なミステリー小説だった

これは灰田のエピソードに登場する緑川の読んでいる本に対する言及である。さらにもう少し進むと、次のような文章が出てくる。

彼が哲学科の学生だと知ると、いくつか専門的な質問をした。ヘーゲルの世界観について。プラトンの著作について。話していると、彼がそのような本を系統的に読み込んでいることがわかった。害のないミステリー小説を読んでいるばかりではないらしい。

この箇所で大事なのは、ミステリー小説の価値が否定されているということだ。この示唆はつまるところ、「『多崎つくる』という小説の世界においてミステリー小説の持つ“論理”は力を持ちませんよ」という宣言に等しい。そこから後の緑川と灰田の父親の問答において出て来る“論理”とは、通常の意味での論理とは一線を画するものだ。そしてその論理こそが『多崎つくる』の主要なテーマ、すなわち因果関係を意味しているのである。だからここでは謎めいたほのめかしに限られている。作品の前半ですべてを説明してしまったらつまらないし、そもそも主要なエピソードの積み重ねなしでテーマをすべて語るのは無理がある。「その話を追求していくには、もっとはっきりした具体例が必要になります」と青年だった頃の灰田の父親も言っている。おそらく本稿を読み終えた後にもう一度その部分をひもといてみると、彼らの会話の意味がよく了解されるだろう。

小説の中盤で、緑川がピアノの上に置いた箱の謎が、後年になって判明するという出来事が語られる。切断された六本目の指ではないか、というのがつくるの推測である。この答えの入手方法には、2つの特徴が認められる。

  • 本来人が隠したいと思っていること、暴かれるのを嫌がるところ、封じたい歴史的な経緯に答えがある。
  • 本来むすびつかないはずの、無関係な2つの物事が、直感によって結びついている。

この構造を念頭に入れて読み解いていくと、後に登場するキーとなる記述をキャッチできるようになる。

たとえばエリとの再会の場面における次の文章がそうだ。

 彼女がまずやったことは、小さな娘をそばに引き寄せることだった。まるで何かの脅威から子供を守ろうとするかのように。

実際にはつくるの方には敵意はない。しかしクロがこのような行動を取ることによって、第三者から見ればあたかもつくるが復讐にやって来たかのように感じられることだろう。つまり後の時刻に起きたはずの「エリが娘を引き寄せる」行為が、時間を遡及して前の時刻のつくるの意志を決定してしまうのである。つくるの視点から見ればエリに敵意を持つというのは思いもよらないことだから、前述の「特徴」で言えば2つめに相当する事態、つまり無関係な二つの出来事が勘によって結び付けられるということが起こっていることになる。

現実にはつくるに敵意がないという認識は、夫の方がつくるを受け入れているということから支持されるだろう(作家はそのようにして読者の誤読を防いでいる)。つまり上記の箇所で語られているのは、「他者が自分をどう捉えているか」ということはしばしば事実と異なっており、しかしその両者は同じレベルの“真実”として同時並行的に存在している、ということだ。我々はそのどちらの真実も尊重しなければならない。子供を守る母親の姿から、我々はそのことを学ぶことができる。

さらに、クロとの対話の最後の方の場面で「沙羅が男と一緒にいるのを見かけたのは、自分がクロにプレゼントを買いに行ったからかもしれない」と把握するところがある。実際にはこのような直接的な記述ではなく、「もしも自分がクロにプレゼントを買いに行かなかったら沙羅が男といるのを見かけなかったろう」というような形式で書かれている訳だが、詰まるところここで語りたいのは前者の内容である。やはりここでも因果関係というものをつくるが学習しているのだ、と分かる。クロに対する潜在的な好意が(たとえ若い頃にしか持たなかった性欲であったとしても)、沙羅への接近を阻害する事態を引き起こした、と了解されるのである。また、ここで問題になっているのはつくるがどのようにして自分の心を整理していくかということであって、現実の世界のレベルでの因果関係ではない。

ここまでの議論を整理すると、次のように書くことができる。

  • 因果関係を把握するということは、自分の心に整理をつける方法でもある。
  • 原因は、自分が隠したいと思っている願いや、あるいは知られたくない過去にある。抑圧があまりに強いと本人にも自覚されないため、原因の追究は困難を極めることになる。
  • 現実世界の法則を無視して、無関係に思える二つの出来事が因果関係として結びつきうる。

上記の了解を延長させていくと、シロの破滅を引き起こした原因の一つは、つくるの抑圧された性欲にあるということが、おのずと了解されるのではないだろうか。この事はすぐ上の項目の中で言えば、二項目に相当する。もう少し正確に言えば、本当は自分の内に存在するものでありながら抑圧しているさまざまな望みや願いといったものを、分かりやすく代表するものとして、性欲が指摘されているのだろう。

無論こうした因果関係の捉え方は、つくるという個人が彼自身の内面の世界を整理し論理づけ、秩序立てていくためのプロセスとして為されているのであって、現実の論理を説明するものではない。そういう把握の仕方を真面目にすると、呪術的なレベルに世界観が堕ちてしまう。しかし時にはそのような心の世界が、現実の世界にちからを及ぼすこともある、というのが作家の考えなのではないかと私は思っている。すなわち、二つの世界は異なるものだが、お互いに影響を及ぼしうるのである。それをリアルと捉えて小説世界として立ち上げたのが、『1Q84』ではないだろうか。

 リトル・ピープルの力学

1Q84』のBook2では、リトル・ピープルが天吾や青豆に力を発揮しようとする。しかしそれは防がれる。そうして小説はハッピーエンドに向かって進んでいくので、それはそれでもちろん目出度いのだが、防がれてしまうと、結局リトル・ピープルは何をしようとしていたのか読者にとってはよく分からないままとなってしまう、という問題がある。『多崎つくる』で描かれているのは、その影の方の情景だと思われる。

文庫版のBook2の前篇のP286-287で、ふかえりは天吾に帰宅をうながす。なお同じ頃に青豆がリーダーを殺害せんとホテルの一室で面会している。

「いそいだほうがいい」
「どうして?」と天吾は尋ねた。
「リトル・ピープルがさわいでいる」

その後雨が降り雷が鳴る。その天候には無論何らかの意味がある。次の文章は青豆がリーダーの部屋から出て来て、坊主頭と話す所で、一文目は青豆の台詞。

「そしてリーダーがそこに中身を与えるのですね」
「そうです。我々の耳には届かない声を、あの方は聴くことができます。特別な方です」、坊主頭はもう一度青豆の目を見た。そして言った。「今日はご苦労様でした。ちょうど雨もあがったようです」
「ひどい雷だった」と青豆は言った。
「とても」と坊主頭は言った。しかし彼は雷や雨にはとくに興味を抱いていないように見えた。

最初の青豆の台詞は相手への非難であるということは、以前解説した。 そして雷や雨に興味を抱かないというのも、やはり同様に倫理的な堕落を意味しているのである。つまり彼らはリトル・ピープルの接近、あるいはリトル・ピープルが接近するのに適した状況というものに気付くことができない。

青豆はその後雨のためにタクシーに乗るのが遅れたりする。彼女はそういった事態をリトル・ピープルの力によるものだと捉える。あるいは友人のあゆみが死んだのもリトル・ピープルのためだと考える。しかし結局のところリトル・ピープルの力は天吾にも青豆にも降りかからない。彼らは防ぐことに成功したのだ。

率直に言って、ここら辺のシーケンスは『1Q84』を読んでいてもよく分からない。詰まる所何も起きていないように見えるので、読者としては「あれは一体どういう意味だったのか」と首を傾げることになってしまうのだ。しかし我々はすでに『多崎つくる』に登場する「因果関係」という考え方を仔細に見てきた。その物の見方をここに適用すると、謎が解けるのである。

青豆は雨に自分の逃走が邪魔されることや、あるいは友人のあゆみが死んだのをリトル・ピープルのためだと捉えている。

まさに、ここに特殊な「因果関係」が顔を出しているのが認められる。当然だが雨が降るのはそのような天候のために起こっているのであり、あゆみが死んだのはセックスの相手が暴力的な性癖を持っていたからである。普通に考えれば青豆の考えは間違いだ。しかし青豆はそのような事象に対して、敢えて「リトル・ピープルが引き起こしたのだ」と捉える。彼女は能動的な操作をおこなっているのだ。それにより原因は“リトル・ピープル”となる。

ではリトル・ピープルとは何か? 前項の結論の三つの事項のうち、私は二つ目に原因を書いた。「原因は、自分が隠したいと思っている願いや、あるいは知られたくない過去にある。抑圧があまりに強いと本人にも自覚されないため、原因の追究は困難を極めることになる」。これに少し修正を加えて「自分の」ではなく「他者の」にすると、実はそれがリトル・ピープルというものの答えになる。人は誰もが心の中に大切な願いや意欲を持っている。あるいは、やがて発展してそのようなものになる種子を内に秘めている。しかしそれを持ち続けること、また発芽させることは大変に困難な作業であるから、多くの人はやがて諦めて、水をやることや温めることをやめてしまう。場合によっては、他者の暴力によって強引に叩き潰されることもある。『アンダーグラウンド』に書かれていることはそれだろう。

けれども話はそこで終わらない。「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない」。やがてそのような中絶された願いは本人から遊離し、リトル・ピープルという形になって空気中を彷徨うようになる。それは人々に様々な影響を及ぼす。取り憑いた相手の意志を無視した事態を、現実のレベルで引き起こす。

ではふかえりの言っている「リトル・ピープルの持たないもの」とは何なのか。それさえあればリトル・ピープルから害を受けずに済むものとは?

それは自分の「中心」にある意欲や異性への愛に、再び熱を与えてやることだ。それこそがまさにリトル・ピープルの持たないものだからだ。それさえあれば彼らはそもそも生まれて来なかった。天吾がふかえりとの性交を通して青豆との記憶を鮮やかな形で取り戻すとき、「中心」という言葉が使われている。また青豆の章においても、「私という存在の中心にあるのは愛だ。」と語られている。

死んだ牛河や、あるいは子供を妊娠するという可能性を奪われてしまったつばさの口からリトル・ピープルが発生しているということを考えると、このような解釈に妥当性があると確認できる。

 マニュアル・ブック

以上の議論を終えて、我々はふたたび『多崎つくる』の前半に出てくる、「論理」をめぐる対話の箇所に戻ってこよう。次は灰田の父親と緑川の対話である。その中にマニュアルブックという言葉が出て来る。なお括弧内は引用者による追記である。

「たしかにその時点では(論理は)力を発揮できないかもしれません。論理というのは都合の良いマニュアルブックじゃありませんから。しかしあとになればおそらく、そこに論理性を適用することは可能でしょう」
「あとになってからでは遅すぎることもある」
「遅い遅くないは、論理性とはまた別の問題です」

1Q84』にもマニュアル・ブックという言葉が出てくる。青豆が『空気さなぎ』をマニュアル・ブックとみなし、そこから災害を未然に防ぐ、あるいは避ける方法を学ぶのである。しかし上記の引用部では、そのような考え方は否定されている。つまり両作においては同種の因果関係のルールが成り立つのだが、『多崎つくる』の側では人は因果に対して現実な力を及ぼすことができず、災いを未然に防ぐことはできない。ただし因果関係という物語をそこに読み取り、把握することだけは可能なのである。

 リトル・ピープルに着目した両作品の比較

前々項の結論を下敷きにすると、『多崎つくる』という作品においては主人公のつくるがリトル・ピープルを生み出し、それがシロが破滅することの一因になった、ということが言えそうだ。『1Q84』の方はリトル・ピープルを送りつけられる側の人間が主人公であり、『多崎つくる』においてはリトル・ピープルを送りつける側の人間が主人公なのである。前者はリトル・ピープルに抵抗することに成功する。後者はむしろリトル・ピープルを送りつけたことによって、他人だけでなく自分自身も深く傷つくという、恐ろしい事態にはまりこんでしまう。

 つくるは言った。「僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく過酷な目にあわされたと思い続けてきた。そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損なってきたと。正直言って、君たち四人を恨んだこともあった。なぜ僕一人だけがこんなひどい目にあわなくちゃならないんだろうと。でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」
 エリは何も言わず、つくるの顔をじっと見ていた。
「そして僕はユズを殺したかもしれない」とつくるは正直に言った。「その夜、彼女の部屋のドアをノックしたのは僕かもしれない」
「ある意味において」とエリは言った。
 つくるは肯いた。

 まとめ

本稿では『多崎つくる』と『1Q84』に登場する因果関係という重要なテーマの究明に取り組んだ。その結果リトル・ピープルは因果関係というテーマと深い関係があるということが判明し、我々はその正体について理解を進めることができた。また因果関係を軸にして両作を比較すると、非常にはっきりとした対照性が認められるということが分かった。

影としての作品

本稿では『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が『1Q84』とペアとして存在している作品であることをまず述べる。その後べつの記事で、この事実を手がかりにして両作に共通する因果関係というテーマを読み解いていく。

 自動車 vs 電車

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は『1Q84』の影としての作品である。小説中に数多くのヒントが盛り込まれているため、それを一つ一つ検分していこう。

1Q84』は青豆がタクシーに乗っている所から物語が始まり、最後に天吾と二人でタクシーに乗り込む。『1Q84』にとって車とは、個を守る特別な容器や箱としての役割を担っているように思われる。Book3の終盤でタクシーの運転手が物語を総括するような挿話を語る点から考えても、車に乗るということに力点が置かれていると分かる。またBook2の最後の青豆の章では、真新しいメルセデス・ベンツに乗った中年の女性が、自殺を図る青豆を心配そうな様子で眺めており、我々はここでも車が肯定的なイメージを持っていることを確認できるだろう。

一方『多崎つくる』はかなり力を込めて自動車と電車(というよりも駅)を対比させている。主人公が青春を過ごした地はトヨタの地元である名古屋なのだが、大人になった今ではアオはレクサスを売り、アカは企業の社員を教育するビジネスを営み日産の関連企業とも付き合っている。つまり彼らが少年であった時に持っていた純粋性はいまでは失われているのだが、そのような「現在」は車という存在と密接に結びついているのである。ただしつくるの駅に対する感動や関心は幼い子供のころから持続しているものだから、そこには無垢な精神性が認められる。さらに、小説の終盤、それもエリとの再会を果たして日本に帰還してから後の場所に、かなり力を割いて駅そのものについての記述が置かれていることは、注目に値する。この作品にとって、駅にはそれだけの価値があるということだ。(ハードカバー版ではP348からP362)

 海を軸にした直喩

もうひとつは海の比喩である。『1Q84』では終始海に関連した比喩が登場する。

それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。(村上春樹著『1Q84』 文庫版Book1前編 P28)

 

大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。(P35)

 

無音の津波のように圧倒的に押し寄せてくる。(P37)

  

タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。(P71)

 

青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。(P82)

 

水の中にいる時のように音がくぐもった。(P297)

潮の満ち引きは月と関連があるので、海の比喩は月というテーマと結びついてるのだという事がおのずと推察される。『1Q84』という大きな物語を駆動させている力のみなもとは、月にある。そのような力の具体的な文章レベルでの顕現が、海を軸にした直喩なのだろう。我々はこの比喩を読むことで、遠く離れた場所にいる二人が同じ月の影響を受けているということを理解する。
 なお、どちらかというと青豆には船に関する比喩が多く、天吾の章では海に呑み込まれる比喩が多いように思われる。ふかえりが暗唱する平家物語のシーンなどがその典型だろう。

そして『多崎つくる』においても、この比喩は続投される。

みんなと別れて一人になると、暗い不吉な岩が、引き潮で海面に姿を現すように、そんな不安がよく頭をもたげた。
  
村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)

 

自分が四人の親友に真っ向から拒否されたことの痛みは、彼の中に常に変わらずある。ただ今ではそれは潮のように満ち干するようになったということだ。それはあるときには足元まで押し寄せ、あるときにはずっと遠くに去って行く。よく見えないくらい遠くに。

 

 つくるは続けた。「どう言えばいいんだろう、まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分だった」
 そう言ってからつくるは、それが先日アカが口にした表現であることに思い当たった。

 

部屋に降りた沈黙は息苦しく、深い悲しみに満ちていた。そこにある無言の思いは、地表をえぐり、深い湖を作り出していく古代の氷河のように重く、孤独だった。

1Q84』では、天吾は自分の「中心」にあるものを発見することに成功する。それは青豆の記憶だ。Book2のふかえりとの性交のシーンでそのことが描かれる。彼が「猫の町」、つまり「海」や「リトル・ピープル」に接近しても無事でいられるのは、自分自身の核を再発見し、その中心部を温めて、確かな強度のものとしたからである。それに対して『多崎つくる』は「船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出された」訳であるから、船という自分を守る容器から、自分を守ることができない形で海に呑み込まれてしまったということになる。このような対照性がここには認められる。さらにこの読解を延長させていくと、電車や駅は「海」、すなわち集合的なものに属するものであると分かってくる。つくるにとって大事なテーマは個よりも集合的なものらしい。

 マニュアル・ブック

1Q84』にも『多崎つくる』にも「マニュアル・ブック」という単語が出て来る。次の記事では『1Q84』の場合についての意味を解説している。

riktoh.hatenablog.com

『多崎つくる』については別の記事で解説していくが、先に一言だけ述べておくと、因果関係という共通するテーマについて両作は真逆の方向性に顔を向けている。

 音楽

1Q84』ではヤナーチェックシンフォニエッタが、『多崎つくる』ではリストのル・マル・デュ・ペイが大きく取り上げられており、どちらも作中で大切な役割を果たす。前者が交響曲であるのに対し、後者はピアノソナタである。

 空気さなぎ

1Q84』では天吾が空気さなぎを作り、青豆を一時的にではあるが具現化させる。『多崎つくる』でもこれに相当する場面がある。

『ル・マル・デュ・ペイ』。その静かなメランコリックな曲は、彼の心を包んでいる不定型な哀しみに、少しずつ輪郭を賦与していくことになる。まるで空中に潜む透明な生き物の表面に、無数の細かい花粉が付着し、その全体の形状が眼前に静かに浮かび上がっていくみたいに。今回のそれはやがて沙羅のかたちをとっていた。ミントグリーンの半袖ワンピースを着た沙羅。

 女性の妊娠という出来事

最後に、両作の関係性をしめす決定的な点を挙げる。それは女性の妊娠の語られ方だ。両作品ともに、主人公の男性と離れた所にいる女性が子供を身ごもる、という点では一致している。ただし『1Q84』の青豆の場合は、天吾の子を授かったことが幸福に繋がるのに対して、『多崎つくる』 のシロの場合はつくるにレイプされて(正確にはされたと思い込んで)妊娠したことが、逆に不幸に繋がってしまっている。

以上から、『多崎つくる』は『1Q84』とテーマが一部重なっており、そのテーマのより暗い側面が語られているのだということが理解できる。

このことは、逆に言えば『多崎つくる』の読解が進めば、それだけ『1Q84』の読解も進展する、ということだ。次の記事ではそのような読解を、一つだけ試みた。

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分裂と統合

1Q84』には同じ名詞や字句の繰り返しが作中に現れる。本稿では、その表現の持つ文学的な意味を探究する。

 同じ字句の繰り返し

次の一文は、天吾が『空気さなぎ』の改稿の許可を得るために戎野先生に初めて会いに行く場面から引用した。

呼吸もいつもの穏やかな呼吸に戻っている。

村上春樹著『1Q84』文庫版 Book1 前編 P265)

ごくシンプルなセンテンスだが、ここは『1Q84』がどういう小説なのかを物語っている箇所だ。

短い一文の中に「呼吸」という名詞が二回登場している。その前後でも登場人物のあいだのやり取りによって同じ表現の繰り返しが行われている。次の引用の中で、「彼女」とはふかえりを指す。

「もうこわくない」と彼女は疑問符抜きで尋ねた。
「もう怖くはないと思う」と天吾は答えた。

 

「よかった」とふかえりは抑揚のない声で言った。
 よかったと天吾も思った。

このような表現がおこなわれる前提として、自分の感情や気持ちが遠くに感じられる、それほど深く自己を喪失している、傷ついているということがある。そこで彼は自身を回復するために、手元にもう一度自分の心を引き寄せなければならない。そのプロセスの開始点として、まずふかえりが可能性としての疑問を提示する。怖いのか、あるいは怖くないのか。そのような問いを差し出されることによって、初めて天吾は「自分は怖くない」ということを「決定」できるようになる。こうした過程を経なければ、彼はいつまでも自分が怖いと感じているのか怖くないと感じているのか、よく分からないままでいることだろう。その混沌の中に取り残されるのは、詰まるところ常に怯えていることに等しいのだ。

 箱としての「ヤナーチェック

おそらく村上春樹は、とても低い地点にいた。それは「言葉には何の力もない」という恐ろしい場所だ。それは彼にとって、主義や主張ではなかった。ただ端的な事実だった。それは目の前にあり、手にとって輪郭を確かめることができるほどに明らかなものだった。それは「本当のこと」以外の何物でもなく、きっと世界でただ一人、村上春樹だけが正確な認識をしていたのだ。したがって作家は文章を書く人間にとってもっとも辛いところ、いわば極北から作品を立ち上げなければならなかったと言える。死んだままそのことに気づかずに地上で暮らし続けているような透明な心境から、彼は出発せざるを得なかった。

言い換えれば、彼の内には「言葉に意味を持たせなければならない」という課題があった。そこに血を通わせ、熱を取り戻すためにはどうすればよいのだろうか。これは、根本的な問いだ。

そこで作家はまず、言葉には力も意味もないということを素直に認めた。それを受け入れた。そして次に、名前というものをゼロから、じかに手でさわって確認することにした。視覚の利かない闇のなかで、固有名詞という箱にていねいに指を這わせ、手のひらの上に乗せて重さを量り、「それは確かにそこにあるんだな」ということをあらためて知覚しなおしたのだ。『1Q84』の冒頭の青豆の章を読みかえしてみると、24ページの中に「ヤナーチェック」という名前が13回登場しており、最初の1ページの中には「ヤナーチェック」と「シンフォニエッタ」が3回ずつ登場しているが、そのような文章の背景には上述した物の感じ方が関係していると言える。我々読者は作家とともに何度もくりかえし同じ固有名詞を文章中で取り上げることによって、様々な角度から名前というものを検証していくことになる。

この取り組みによって、「ヤナーチェック」という名前が持っている「箱」としての性質が浮かび上がってくる。作家は読者がヤナーチェックも彼のシンフォニエッタも知らないということを前提にして書いているようだ。さらに音楽というのはあくまでも音楽であって、文章をいくら読んだところで実際に聴こえてくるようなものではないから、この性格もまた「ヤナーチェック」や「シンフォニエッタ」の「箱」としての性質を強めていると言えるだろう。それは一つの「仮説」としてある。しかるべき意志とルール、手順を取りさえすれば、希望という中身を伴ったものへと育て上げることのできる箱だ。我々はすでに『1Q84』固有の隠喩表現について仔細に検討してきた(リンク)。そこでは容器、箱というものがテーマになっている。冒頭の文章は小説のテーマを予告しているのではないだろうか。

 二度の繰り返しと鏡の反射。分裂を統合する。

前項で述べた物の感じ方が実感として理解できていると、次の作中の台詞もおのずと了解されるだろう。

「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世に間違いなく存在していることを確かめる」(P113)

作家が小説を書くとき、もしも言葉に意味がなかったら一体どうなってしまうだろう。それは作品が消えることに等しく、作家にとっては自分が消滅することに等しい。このことは青豆が繰り返し述懐する、今の世界が本当に現実の世界であるということが信じられない、という思いと密接な関係がある。それは世界の終わりと何ら変わりがないのだ。だからこそ、「僕という人間がこの世に間違いなく存在していることを確かめる」という台詞が出てくる。

そのために、最初の項で述べた二度の繰り返しという表現が提示されたのである。

まず、分裂している自己が在る。本人はそのことを知ってさえいない。だからそのことを自覚するために、特殊な鏡が必要となる。その分裂してしまった箇所を示唆するような鏡だ。人はそれを見て自分の姿を知る。そしてその分かたれた半身を取り戻し、再統合をおこなう。それは鏡を見ることで初めて自分が汚れていたり、外傷があることを知るという現象に近い。こうしたメカニズムが把握できると、作中のあらゆる会話の中で疑問とその応答が出て来る訳も了解されるだろう。疑問もやはり鏡としての役割を担っているのだ。問われている側はそれによって、より深く自己を探索することができる。

確認しておくが、「分裂」という言葉は『1Q84』のキーワードの一つだ。序盤では分裂している自己というものが強調されている。

彼女は自分が二つに分裂していることを知る。彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女の半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。(P93)

 

しかし『空気さなぎ』という作品について考え出すと、天吾の心は激しく混乱し、分裂した。(P233)

 執拗な繰り返しと分裂

ところで『ドン・キホーテ』の前篇には、『愚かな物好きの話』という独立した短編が挿入されている。これはセルバンテスの特徴が如実にあらわわれた小説で、雄弁な文体で執拗に同じことを繰り返す。するとそれによって独特のおかしさが生まれてくる、という仕組みになっている。

筋を言うと、結婚したばかりのアンセルモという男は妻の貞淑を確認したいがために、親友のロターリオに自分の妻を誘惑してくれないかと頼みこむ。親友であるロターリオならば仮に妻が陥落しても、肉体関係にまで進むことはないだろうと考えてのことである。ロターリオは思慮深い人間なので最初は友人の依頼を断る。それも心から彼のことを案じて、説得しようと試みるのである。

「いいかい、アンセルモ、天の配剤か幸運のたまものかは知らぬが、君がこの上なく見事なダイヤモンドの正当な所有者となったと仮定しよう。そして、その宝石を手にとって見たすべての宝石鑑定人がその質の良さと大きさに感嘆して、異口同音に、品質、大きさ、光沢のすべての面で完璧の域に達していると評し、君とてそれに欠陥を認めえないまま、彼らの価値を信じていたとしよう。そんな時に、君がそのダイヤモンドを鉄床の上に置き、金槌で力まかせに打ちつけて、はたして人の言うほど硬くて良質のものかどうか試してみようという気になったとしたら、はたしてその思いつきは当を得ているといえるだろうか? のみならず、君がそれを実行に移したとして、かりに宝石がそんな愚劣な試験に耐えたところで、それによって値打ちが上がったり声価が高まったりするものだろうか。反対に、もし砕けたとすれば、もちろん砕けないと決まったものでもないからね、それこそ何もかも失うことになるんだよ。いいかいアンセルモ、冷静に考えてみたまえ。カミーラがこの上なく上等なダイヤモンドであることは、君だけでなく世間の人が等しく認めるところなのに、そんな細君をわざわざ砕けるかも知れない危険にさらすなんて愚かなことだと思わないかい? よしんば、そんな試験にびくともしなかったところで、彼女に対する評価が今より上がるわけでもないし、万が一、あやまって屈してしまったとしたら、彼女を失った君がどういうことになるか、また、君自身が彼女の破滅と自分の破滅の種をまいたことを思って、どれほど深刻に自責の念にかられ、後悔することになるか、この場でとくと考えてみるがいい。」

この数倍の長さの台詞でロターリオは熱意を込めてアンセルモを説得する。この前後でアンセルモもかなりの長尺で言葉を尽くしてロターリオに妻を口説くよう頼み込むのだが、その内容はアンセルモの友情に感激したことなど、ポジティブな意味合いで占められている。

このようにして作品は読者に対して、「絶対に誘惑なんて上手く行くわけがない」という意味内容を、楽しく雄弁な調子で――セルバンテスによれば優れた「語り口」によって――何度も与えてゆく。執拗に前へ前へと読者に突きつけていく。すると読者の心のうちには次第に「ひょっとすると、誘惑が上手く行くのではないか」という疑問が生じてくるのである。つまり、与えたものと反対のものが現れることになる。

まさにこの事は前項で述べた村上春樹のメソッドと対極をなしている。セルバンテスは楽しく豊かな文体によって読者を上手く一つの流れに乗せるのだが、それを執拗に繰り返すことによって、結果として読者の心を反対の方向にむけている。いわば分裂させる。『1Q84』の方法論も表面的な所だけに注目すれば「繰り返し」が鍵になっており、その点は同じなのだが、『1Q84』の方では心が分裂してしまっているのはあくまでも「前提」である。それは事実として、最初から与えられている。むしろ問題になっているのはいかにそれを統合していくかなのだ。そしてそれは、前項の繰り返しの技法によって解決の糸口が与えられることになる。

以上の議論は、実に興味深い。ある一点においては同じことをしているにも関わらず反対の結果が得られるというのは、不思議なことだ。下手をすれば、村上の文章はこの項で述べたセルバンテスの手法へと落ちこんでしまうだろう。しかしそこはさすがに熟練の腕というものがあり、彼がそのような陥穽にはまることはないようだ。

 中間を語る

最後に「中間を好んで語る」ということについて言及しておきたい。このことは村上春樹のファンならば誰しも気付いているのではないかと思われるほどに、彼の小説の明確な特徴になっている。

例えばBook1の前篇の第十章で、天吾は戎野先生に会いに行く。そこで小説は、天吾の道程を詳細に語っていく。電車の乗り換えや風景の変化、タクシーの運転の様子、そして戎野先生を待つ部屋などについて描写がなされる。つまり「戎野先生に会う」という結果に対して、その前、中間の部分が語られている、というのがこの文章の眼目なのだ。同様に第七章では、青豆が温室の中の老婦人と会うにあたって、タマルの動作が語られている。温室の外と中を行き来するときに彼は扉を開け閉めするのだが、その際の手順というものを意識したように、意図的に読点によって文章が区切られている。彼はしかるべき手順を踏むことによって結果に至る男なのだ。サンドイッチを作るのも上手い。それはどこかフィリップ・マーロウがコーヒーを淹れることと似ている。

分裂したものを統合する、つまり距離の開いてしまった二者を統合するということについて考えると、このような「中間」を重視する姿勢が必要になってくるのだと思われる。

 まとめ

この記事では『1Q84』に登場する二度の繰り返しという表現に注目して、その背景の説明を試みた。またその背景は、冒頭の「ヤナーチェック」の繰り返しが持っている背景と密接な関係があると述べた。そしてその表現形式は、セルバンテスの手法と興味深い対照をなしていることを指摘した。

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