『夢応の鯉魚』を読む

『雨月物語』に収録されている『夢応の鯉魚』を読んだところ大変おもしろく、実に驚かされた。そこでなぜこの作品がこんなにも面白いのかについて考えてみた。

無意識を語る小説

まずひとつに、人間が本来は感じているはずだが、普段は意識されないことをこの小説は描いている、ということが挙げられる。そのような無意識の層で起こっている物事や概念をうまく語られると、人間は本能的に驚き、感心してしまうものなのだ。

無意識を語る小説の例として有名なものに『失われた時を求めて』がある。

これらの花は、断崖のうえの庭をいろどるペンシルヴェニアのバラの植え込みにも似た軽やかな生け垣によって私の前の水平線を縦に切断しており、花と花のあいだには蒸気船の通る水平の航跡が収まっている。蒸気船は、青い水平線上を一本の茎からもう一本の茎へとゆっくり進んでゆくから、ずっと前に船体が通過した花冠の奥にぐずぐずしていた怠け者のチョウも、船の進む先にあるつぎの花の最初の花弁に舳先が届くには紺碧の隙間をほんのわずかに残すだけになるのを待って飛び立っても、確実に船よりさきにその花に着けるのである。

(マルセル・プルースト著 吉川一義訳『失われた時を求めて』第四巻)

解説すると、まず主人公は海に臨んでおり、遠くに船を見ている。海上の船は遠い所にあるので非常に小さく目に映り、ゆっくりと動いているが、いっぽう花はすぐ手前にあるので、そこをいきかう蝶は船よりも見た目上は速く動く。だから蝶はあっさりと船を追い越して次の花まで移動できるのだ、ということを描写した文章である。

我々は目に映っている映像をそのままの形で認識しているわけではない。これまでの学習結果を活かして、遠くにあるものは「遠くにある」と認識し、つねに「あれは遠くに存在しているから小さく見えるんだ。そしてゆっくりと動いているのだ。本当に近づいたらもっと大きいだろうし、ずっと速いかもしれない」と、自分自身に言い聞かせながら道を歩いているのである。でなければ我々は車に轢かれて、満足に外を歩くこともできないだろう。

ここでプルーストが語っているのは、そのような色眼鏡を外して物を見てみると、人の目には実に不思議で面白い映像が現れる、ということだ。プルーストは長い経験から、人の頭には過去に見た映像がしっかりと記憶されているということを知っていた。だからその記憶された原映像というべきものを読者に対して再現してやれば、大きな感動を引き起こすことができるはずだと考えたのである。

このように「感じているはずだが、普段は意識されないこと」を上手く突いた例を、我々はさまざまな小説のなかに認めることができる。そのうちの代表的なものは男性の性欲の持ち方だろう。例えば『私を離さないで』という小説には、次のような箇所がある。

申し上げたいのは、その初回から、悲しみに染まった何かをトミーに感じたということです。いまこうしているのは嬉しい、こうできるのは嬉しい、だが、ようやくいまになってというのが、おれは悲しい……。

(カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳『私を離さないで』)

この物語は一人称で書かれていて、主人公の女性とトミーは子供のころに仲が良かったが、結局恋人同士になることもなく大人になってしまった。それから時が過ぎ、特殊な事情によりトミーは病人のような状態になった。そのトミーと主人公がようやく肉体的に結ばれようとしているのが、上記の場面である。男性の性欲は突発的で、凶暴なものだ。それは一瞬のうちに彼を襲うようにやって来る。だから社会の秩序のために、この世のほとんどの男性は非常に強力な抑圧を、つねに自分自身に課しながら生きている。ということはつまり、男なら誰であれ実際にセックスをする時はすでに「遅い」のである。最初に感じた、あるいは感じられるはずだった性欲の時点からすると、たとえ相手が好きな異性であれ、あるいはそうでなくても、ずいぶん後になってから本物の達成がやって来たと言わざるをえない。そのような「普遍的な」封じられた悲しみ、自覚されることのない喪失を、引用した箇所は指摘している。人の心の深いところにまで届く文章というのは、そういったものだ。

無自覚な罪悪感

『夢応の鯉魚』もまた人の無意識について語った小説である。この物語は人の罪悪感について語っている。それも殺人のような分かりやすい罪ではなく、生き物を捕まえる、殺して料理するということについて述べている。

罪悪感は不快な感情だから、人はそれを抑圧しようとする。しかも鳥や魚をさばいて料理するというのは社会的に許されている行為だし、人間なら誰もがその営みに何らかの形で繋がっているので、ほとんどの人はそれを悪だと思っていない。そのため封じるのは簡単である。

しかし我々はその行為に、実際はちゃんと罪悪感を感じながら生きている。『夢応の鯉魚』を読んだときの読後感によって、それが分かる。この種の罪悪感は抑えつけるのが簡単なだけにかえって自覚しにくいという面があるのだが、『夢応の鯉魚』はその「自覚しにくさ」という壁をうまく乗り越えているので、大変優れた物語であると僕には感じられた。

物語の構造を知る

ではどのようにして『夢応の鯉魚』は人々の心の強い抵抗を乗り越えているのだろうか。いや、それは乗り越えているというよりは「すり抜けている」と言った方が正確かもしれない。我々は気がつかない間に目的地へと運ばれてしまっているからだ。お説教をされたとか、作者の熱い思いが込められたメッセージを受け取ったとかいう印象はまったくない。それは実に爽やかな読後感なのだ。

『夢応の鯉魚』の中で重要な人物は、料理人と漁師の文四と、僧の興義の二者になる。料理人と文四はひとまとめにして扱ってよい。我々の日常における意識は料理人のそれであり、罪悪感は表に出てこない。しかし確実に心の底のあたりに蓄積している。興義はそのような罪悪感を、我々に代わって告白してくれる役目を担っている。ただ、その感情は普段は強い力で抑えつけられているものだから、特殊な径を通らなければ発見することはできない。そのための通路が、話中話と、犠牲という概念である。

この小説は前半で興義の死と蘇生、そして檀家の家の情景を言い当てるという不思議な現象が語られる。その後に一見それらとは関係の薄いように思われる、興義の夢の話が、興義自身の口より語られる。今まで語られてきた物語とは別の物語が語られるわけだが、読者はそちらの方が面白いので、つい引き込まれて集中してしまう。そのようなところに、最初の物語が思いがけない形で合流してくるのである。読者は不意打ちをくらって驚きを覚える。驚くことは面白い経験であり、人は面白いことを合理的だと思う傾向を持っているので、このような異なる話の接続を深く納得する。

また、犠牲は人を説きふせる働きを持つ。僧の興義は魚となって死を体験する訳だが、そのような苦しみを目の当たりにすると、人は崇高さを覚えて本能的に正しいと思う。魚が苦しんでいるのは、そもそも魚が苦しんでいるのかどうかよく分からないので、人は納得されない。しかし興義は人間なので、興義が苦しんでいれば人は納得されるのである。その興義が「私を(鯉を)さばくのをやめてくれ」と苦しみながら叫んだというので、人はそこで「なるほど、鯉をさばくのはやめよう」と思うわけである。作中では助という人物がそのような心持ちを「代弁」してくれるので、読者としてはますます納得されやすくなる。自分では認めにくいことを、他人が先んじて認めてくれると、人は心が安らぎ、素直になれる。

このような一連の心の運動を、「魚が口をパクパクと動かす」という誰もが見たことのある情景に上手く当てはめたからこそ、『夢応の鯉魚』は物語としての大きな力を獲得したのだろう。

我々は魚が口をパクパクと動かすのを見て、そこに声がないことを実は不思議に思っている。無意識のうちに牛や鶏が鳴き声をあげることと比較しているのである。そのような魚の「失われた声」をこの物語は与えてくれる。意識上の疑問よりも無意識下の疑問に答える方が、より深く人の心を打つのだ。