『1Q84』には同じ名詞や字句のくりかえしが作中に頻繁に現れる。本稿ではその表現の持つ文学的な意味を探究する。
同じ字句の繰り返し
次の一文は、天吾が『空気さなぎ』の改稿許可を得るために戎野先生に初めて会いに行く場面から引用したものである。
呼吸もいつもの穏やかな呼吸に戻っている。
(村上春樹著『1Q84』文庫版 Book1 前編 P265)
ごくシンプルなセンテンスだが、ここは『1Q84』がどういう小説なのかを理解するにあたって、外せない箇所だ。短い一文の中に「呼吸」という名詞が二回登場している。その前後でも登場人物のあいだのやり取りで同じ表現の繰り返しが行われているので、確認してみよう。次の引用の中で「彼女」とはふかえりを指している。
「もうこわくない」と彼女は疑問符抜きで尋ねた。
「もう怖くはないと思う」と天吾は答えた。
「よかった」とふかえりは抑揚のない声で言った。
よかったと天吾も思った。
このような表現がおこなわれる前提として、自分の感情や気持ちが遠くに感じられる、それほど深く自己を喪失している、傷ついているということがある。そこで彼は自身を回復するために、手元にもう一度自分の心を引き寄せなければならない。そのプロセスの開始点として、まずふかえりが可能性としての疑問を提示する。怖いのか、あるいは怖くないのか。そのような問いを差し出されることによって、初めて天吾は「自分は怖くない」ということを「決定」できるようになる。こうした過程を経なければ、彼はいつまでも自分が怖いと感じているのか怖くないと感じているのか、よく分からないままでいることだろう。その混沌の中に取り残されるのは、詰まるところ常に怯えていることに等しいのだ。
箱としての「ヤナーチェック」
おそらく村上春樹は、とても低い地点にいた。それは「言葉には何の力もない」という恐ろしい場所だ。それは彼にとっては主義や主張ではなかった。ただ端的な事実だった。それは目の前にあり、手にとって輪郭を確かめることができるほどに明らかなものだった。それは「本当のこと」以外の何物でもなく、きっと世界でただ一人、村上春樹だけが事態の正確な認識をしていた。したがって作家は文章を書く人間にとってもっとも辛いところ、いわば極北から作品を立ち上げなければならなかったと言える。死んだままそのことに気づかずに地上で暮らし続けているような透明な心境から、彼は出発せざるを得なかった。
言い換えれば、彼の内には「言葉に意味を持たせなければならない」という課題があった。そこに血を通わせ、熱を取り戻すためにはどうすればよいのだろうか。これは、根本的な問いだ。
そこで作家はまず、言葉には力も意味もないということを素直に認めた。それを受け入れた。そして次に、名前というものをゼロから、じかに手でさわって確認することにした。視覚の利かない闇のなかで、固有名詞という箱にていねいに指を這わせ、手のひらの上に乗せて重さを量り、「それは確かにそこにあるんだな」ということをあらためて知覚しなおしたのだ。『1Q84』の冒頭の青豆の章を読みかえしてみると、24ページの中に「ヤナーチェック」という名前が13回登場しており、最初の1ページの中には「ヤナーチェック」と「シンフォニエッタ」が3回ずつ登場しているが、そのような繰り返しがなされる背景には、上述した物の感じ方が関係していると言える。我々読者は作家とともに何度も同じ固有名詞を文章中で取り上げることによって、様々な角度から名前というものを検証していくことになる。
この取り組みによって、「ヤナーチェック」という名前が持っている「箱」としての性質が浮かび上がってくる。作家は読者がヤナーチェックも彼のシンフォニエッタも知らないということを前提にして書いているようだ。さらに音楽というのはあくまでも音楽であって、文章をいくら読んだところで実際に聴こえてくるようなものではないから、この性格もまた「ヤナーチェック」や「シンフォニエッタ」の「箱」としての性質を強めていると言えるだろう。それは一つの「仮説」としてある。しかるべき意志とルール、手順を取りさえすれば、希望という中身を伴ったものへと育て上げることのできる箱だ。我々はすでに『1Q84』固有の隠喩表現について仔細に検討してきた(リンク)。そこでは容器、箱というものがテーマになっている。冒頭の文章は小説のテーマを予告しているのではないだろうか。
二度の繰り返しと鏡の反射。分裂を統合する。
前項で述べた物の感じ方が実感として理解できていると、次の作中の台詞もおのずと了解されるだろう。
「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世に間違いなく存在していることを確かめる」(P113)
作家が小説を書くとき、もしも言葉に意味がなかったら一体どうなってしまうだろう。それは作品が消えることに等しく、作家にとっては自分が消滅することに等しい。このことは青豆が繰り返し述懐する、今の世界が本当に現実の世界であるということが信じられない、という思いと密接な関係がある。それは世界の終わりと何ら変わりがないのだ。だからこそ、「僕という人間がこの世に間違いなく存在していることを確かめる」という台詞が出てくる。
そのために、最初の項で述べた二度の繰り返しという表現が提示されたのである。
まず、分裂している自己が在る。本人はそのことを知ってさえいない。だからそのことを自覚するために、特殊な鏡が必要となる。その分裂してしまった箇所を示唆するような鏡だ。人はそれを見て自分の姿を知る。そしてその分かたれた半身を取り戻し、再統合をおこなう。それは鏡を見ることで初めて自分が汚れていたり、外傷があることを知るという現象に近い。こうしたメカニズムが把握できると、作中のあらゆる会話の中で疑問とその応答が出て来る訳も了解されるだろう。疑問もやはり鏡としての役割を担っているのだ。問われている側はそれによって、より深く自己を探索することができる。
確認しておくが、「分裂」という言葉は『1Q84』のキーワードの一つだ。序盤では分裂している自己というものが強調されている。
彼女は自分が二つに分裂していることを知る。彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女の半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。(P93)
しかし『空気さなぎ』という作品について考え出すと、天吾の心は激しく混乱し、分裂した。(P233)
執拗な繰り返しと分裂
ところで『ドン・キホーテ』の前篇には、『愚かな物好きの話』という独立した短編が挿入されている。これはセルバンテスの特徴が如実にあらわわれた小説で、雄弁な文体で執拗に同じことを繰り返す。するとそれによって独特のおかしさが生まれてくる、という仕組みになっている。
筋を言うと、結婚したばかりのアンセルモという男は妻の貞淑を確認したいがために、親友のロターリオに自分の妻を誘惑してくれないかと頼みこむ。親友であるロターリオならば仮に妻が陥落しても、肉体関係にまで進むことはないだろうと考えてのことである。ロターリオは思慮深い人間なので最初は友人の依頼を断る。それも心から彼のことを案じて、説得しようと試みるのである。
「いいかい、アンセルモ、天の配剤か幸運のたまものかは知らぬが、君がこの上なく見事なダイヤモンドの正当な所有者となったと仮定しよう。そして、その宝石を手にとって見たすべての宝石鑑定人がその質の良さと大きさに感嘆して、異口同音に、品質、大きさ、光沢のすべての面で完璧の域に達していると評し、君とてそれに欠陥を認めえないまま、彼らの価値を信じていたとしよう。そんな時に、君がそのダイヤモンドを鉄床の上に置き、金槌で力まかせに打ちつけて、はたして人の言うほど硬くて良質のものかどうか試してみようという気になったとしたら、はたしてその思いつきは当を得ているといえるだろうか? のみならず、君がそれを実行に移したとして、かりに宝石がそんな愚劣な試験に耐えたところで、それによって値打ちが上がったり声価が高まったりするものだろうか。反対に、もし砕けたとすれば、もちろん砕けないと決まったものでもないからね、それこそ何もかも失うことになるんだよ。いいかいアンセルモ、冷静に考えてみたまえ。カミーラがこの上なく上等なダイヤモンドであることは、君だけでなく世間の人が等しく認めるところなのに、そんな細君をわざわざ砕けるかも知れない危険にさらすなんて愚かなことだと思わないかい? よしんば、そんな試験にびくともしなかったところで、彼女に対する評価が今より上がるわけでもないし、万が一、あやまって屈してしまったとしたら、彼女を失った君がどういうことになるか、また、君自身が彼女の破滅と自分の破滅の種をまいたことを思って、どれほど深刻に自責の念にかられ、後悔することになるか、この場でとくと考えてみるがいい。」
この数倍の長さの台詞でロターリオは熱意を込めてアンセルモを説得する。この前後でアンセルモもかなりの長尺で言葉を尽くしてロターリオに妻を口説くよう頼み込むのだが、その内容はアンセルモの友情に感激したことなど、ポジティブな意味合いで占められている。
このようにして作品は読者に対して、「絶対に誘惑なんて上手く行くわけがない」という意味内容を、楽しく雄弁な調子で――セルバンテスによれば優れた「語り口」によって――何度も与えてゆく。執拗に前へ前へと読者に突きつけていく。すると読者の心のうちには次第に「ひょっとすると、誘惑が上手く行くのではないか」という疑問が生じてくるのである。つまり、与えたものと反対のものが現れることになる。
まさにこの事は前項で述べた村上春樹のメソッドと対極をなしている。セルバンテスは楽しく豊かな文体によって読者を上手く一つの流れに乗せるのだが、それを執拗に繰り返すことによって、結果として読者の心を反対の方向にむけている。いわば分裂させる。『1Q84』の方法論も表面的な所だけに注目すれば「繰り返し」が鍵になっており、その点は同じなのだが、『1Q84』の方では心が分裂してしまっているのはあくまでも「前提」である。それは事実として、最初から与えられている。むしろ問題になっているのはいかにそれを統合していくかなのだ。そしてそれは、前項の繰り返しの技法によって解決の糸口が与えられることになる。
以上の議論は、実に興味深い。ある一点においては同じことをしているにも関わらず反対の結果が得られるというのは、不思議なことだ。下手をすれば、村上の文章はこの項で述べたセルバンテスの手法へと落ちこんでしまうだろう。しかしそこはさすがに熟練の腕というものがあり、彼がそのような陥穽にはまることはないようだ。
『城』の「クラム」
なお「ヤナーチェック」・「シンフォニエッタ」はカフカの『城』における「クラム」と対応しているように、私には思われる。『城』では誰もが呆れるほど繰り返し「クラム」という名を連呼する。どのページを開いてもクラム、クラム、クラムと言っていいぐらいだ。その意味は単なる人物名から逸脱していき、しだいに主人公と婚約者に対立し、彼らを支配しようとする、あらゆるものの総合のように思われてくる。不気味な霊なようなものとして立ち上がってくるのだ。
対して「ヤナーチェック」はどこかお守りのように機能している。青豆とタクシーの運転手が別れる際に、その名を確認し合うのは印象的だ。
中間を語る
最後に「中間を好んで語る」ということについて言及しておきたい。このことは村上春樹のファンならば誰しも気付いているのではないかと思われるほどに、彼の小説の明確な特徴になっている。
例えばBook1の前篇の第十章で、天吾は戎野先生に会いに行く。そこで小説は、天吾の道程を詳細に語っていく。電車の乗り換えや風景の変化、タクシーの運転の様子、そして戎野先生を待つ部屋などについて描写がなされる。つまり「戎野先生に会う」という結果に対して、その前、中間の部分が語られている、というのがこの文章の眼目なのだ。同様に第七章では、青豆が温室の中の老婦人と会うにあたって、タマルの動作が語られている。温室の外と中を行き来するときに彼は扉を開け閉めするのだが、その際の手順というものを意識したように、意図的に読点によって文章が区切られている。彼はしかるべき手順を踏むことによって結果に至る男なのだ。サンドイッチを作るのも上手い。それはどこかフィリップ・マーロウがコーヒーを淹れることと似ている。
分裂したものを統合する、つまり距離の開いてしまった二者を統合するということについて考えると、このような「中間」を重視する姿勢が必要になってくるのだと思われる。
まとめ
この記事では『1Q84』に登場する二度の繰り返しという表現に注目して、その背景の説明を試みた。またその背景は、冒頭の「ヤナーチェック」の繰り返しが持っている背景と密接な関係があると述べた。そしてその表現形式は、セルバンテスの手法と興味深い対照をなしていることを指摘した。